チヴィタ・ディ・バーニョレージョ(バンニョレージョ/バニョレージョ)のことを知ったのは、1981年から82年にかけて、フィレンツェの語学学校に通っていたときのことだと記憶している。
誰から聞いたかも覚えていないのだが、ローマの北のほうに、「La città che muore」つまり「死にゆく町」「滅びゆく町」というのがあるという。
その町は丘の上にあり、住民のほとんどが出ていってしまったために、なかば廃墟になっていると聞いた。まだまだ、山岳都市、丘上都市に目覚める前のことではあったが、いったいどんな町なのか、ぜひとも行ってみたいと興味を抱いたのである。
ようやく、この町を訪れることができたのは、それから15年後となる1996年の夏のこと。ヴィテルボ(Viterbo)のバスターミナルを発車したバスは、山道をさんざん走った末に、ようやく終点のバーニョレージョに到着した。
バーニョレージョ自体は、何の変哲もない小さな田舎町である。バスを降りてきょろきょろしていると、「←Civita」という標識が目に入った。距離は1キロと記されている。
──なるほど、バーニョレージョとチヴィタは別ものなのか。
チヴィタというのは、ラテン語から来ている言葉で、もともと町という意味。だから、イタリア全土に同じチヴィタを名乗る町や村はいくつもある。そこで、ほかと区別するために、ここでは「バーニョレージョのチヴィタ」と呼んでいるのだとわかった。
また一つウンチクを仕入れたところで、いよいよ「死にゆく町」訪問である。私は、ちょっぴり緊張して矢印の方向に歩を進めたのであった。
あとになって調べて知ったことだが、この町は17世紀末と18世紀末の2度に渡って大地震に見舞われ、ほとんどの住民が町を去ったのだという。バーニョレージョとチヴィタを結ぶ道も寸断され、現在はその後、何代目かの橋のはずである。
さて、バーニョレージョの町はずれにやってくると、トップの写真のような威容が目に飛び込んできた。まあ、この眺めはすでに写真で見ていたので、驚きこそしなかったものの、やはり感動ものである。
橋のバーニョレージョ側にある観光案内所兼土産物屋では、この町の古い絵はがきが売られていた。イタリア人の観光客が次々にやってくる。その数が、むしろヴィテルボよりも多かったのは意外であった。
──ふうん、イタリアでもこういう町が人気が呼んでいるのか。
しかし、驚くのはまだ早かった
橋を渡り、町の門をくぐろうとすると、そこにいたのはイタリアの小学生の団体。
社会見学でやってきたのだろう、それはそれは大騒ぎであった。少なくとも、「死にゆく町」という名前から想像される静けさは微塵も感じられなかったのである。
「チネーゼ(中国人)?」と下のほうから声がした。見ると、大きな目でじっと私を見上げる子がいる。
近くにいた先生らしき男性が、「これこれ、ぶしつけなことを聞くんじゃありません」とばかりに叱る。
私は、にっこりと微笑んで、「ノ、ジャポネーゼ(日本人)」と答えたのであった。
狭いチヴィタの町には、観光客が意外に多かった。廃墟と思っていた町には、土産物屋もあれば、レストランもある。好んでここに住みはじめた画家もいたようだ。
すがすがしい晴天のもと、「死にゆく町」はやけに明るく、生き生きとして見えたのだった。