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イタリア町めぐり

トリエステ港, 1985年10月 地図


 それは1985年の秋のこと。イタリアの隣に、ユーゴスラヴィア連邦という国があったころの話である。ソ連、ルーマニア、ユーゴスラヴィアを訪ねた私は、いまではクロアチアの首都となっているザグレブから、スロベニアを経由して国境の町トリエステに向かう夜行列車に乗り込んだ。
 2等車ではあったが、コンパートメント1室をひとり占めすることができ、トリエステまでぐっすりと睡眠をとれそうだとほくそえんでいたのである。


トリエステの中心部にあるカナル・グランデ(大運河)。名前は雄大だが、ヴェネツィアのそれとはかなり趣が違う。海岸からわずか200メートルほど続いているだけ。

2007.6

大運河


 ところが、夜中の2時ごろだっただろうか、どやどやと人の乗り込む気配がしたかと思うと、20歳前後と思われる男女が私のコンパートメントに入ってくるではないか。どうやら、ほかにも同行の友人がかなりいるらしく、しばらくの間、あっちに行ったり、こっちに来たりと騒がしい。
それでも20分ほどすると落ち着いてきたようで、やれやれと思ったのだが、いいかげん目が冴えてしまった。そんな私の様子を見ていたのだろう、男のほうが英語で話しかけてきた。


トリエステの町なか

トリエステの町並みは、「小ウィーン」と呼ばれているだけあって、イタリアというよりはオーストリアに近く感じられた。
それもそのはずで、歴史的にはイタリア文化圏ではあったのだが、第1次世界大戦が終わるまではオーストリア・ハンガリー帝国の領土だったのだ。

2007.6



「にいさん、どこから来たんだい」
「日本からだよ。あんたたちは手ぶらでどこまで行くの?」
「オレたちは、きょうロックのコンサートを聞きに行くのさ」
「へーえ」
「トリエステは昔は同じ国だったから、IDカードさえあればビザなしで行けるんだ」
「ふーん」
「ハードロックは最高さ!」
「ほーお」
 当時は、東欧の国でもかなり自由化が進み、若者たちにロック熱が高まってきたころだった。そもそも、ソ連とは袂をわかって独自の社会主義路線をとっていたユーゴスラヴィアである。町を歩いていても、ほかの東欧諸国のような重苦しい雰囲気は、ほとんど感じられなかった。


町中に忽然と表れるローマ時代の円形劇場「テアトロ・ロマーノ」。こんなところは、ちょっぴりイタリアらしい(?)

1985.10

ローマ時代の円形劇場


 それにしても、80年代なかばといえば、ハードロックがもっとも下火だった時代ではなかろうか。日本では「ハードロックを聴く」などとは、恥ずかしくて口にできなかったころである。真剣な表情で話す彼のことを、私は内心ではにやにやしながら見ていたのだった。
「ところで、日本ではどんな音楽が流行っているんだ」
 ここで「ロックさ!」なんて答えたのではおもしろくない。実際に、そのころ日本やヨーロッパでは、ワールドミュージックや民族音楽がちょっとしたブームになっていた。そこで、どんな反応をするかと期待しつつ、こう答えたのである。
「うーん、フォークミュージックかな。世界各地のね」
 すると彼は、あきれたような顔をしていたかと思うと、それっきり話しかけてこなくなってしまった。
----ちょっと意地悪だったかなあ。でも、本当なんだからしょうがない……。それにしても、真夜中に手ぶらで外国に行くっていうのも変だよなあ。イタリアの国境で、絶対にしつこく調べられるに違いないぞ。ふっふっふ、気の毒に。


トリエステの路面電車

トリエステのオベルダン広場から出る路面電車。実は、知る人ぞ知る、不思議な乗りものである。
このあと、ケーブルカー式の機関車(左に見えているオレンジの車両)の後押しで急坂を上り、郊外のVilla Opicina(ヴィッラ・オピチーナ)に向かうのだ。

1985.10

これが坂を上っている様子。
その後、オレンジ色の機関車は引退して、現在ではリモートコントロール式の後押し機械が活躍している。

1985.10

トリエステの路面電車


 そのあとは、何も話しかけられないのをいいことに、熟睡に入った私であった。目が覚めたのは、国境でイタリアの係員がパスポートチェックにやってきた音がしたときである。
 同室のユーゴ人の男女は、IDカードをちょっと見せただけでおしまい。
 私は、もちろん日本のパスポートを見せた。すると係員は、「どこを通ってきたんだ」とか「どれがおまえの姓で、どこからが名前なんだ」とか、いやにうるさい。手元のブラックリストらしきものと照合したかと思ったら、次はバッグを開けろという。

 久しぶりにイタリア語が聞けたので、うれしくなってべらべらとしゃべったので、かえって変に思われたのか。それとも、こんなルートでイタリアに入国する日本人なんて、めったにいないから不審がられたのか。いずれにしても、バッグの隅々まで見られたなんて、ほかにはソ連に入国したときぐらいである。
----なんだ、なんだ。あいつらのほうが、よっぽど怪しいじゃないか。
 と思ったが、すぐに気がついた。国境の町トリエステでは、いくら社会体制が違うといえども、隣国の青年はなじみが深いのだ。大きなバッグを持って変なイタリア語を話す東洋人のほうが、よっぽど怪しいのである。


トリエステの路面電車

トリエステの背後の丘にある小さな町。背後の丘には、こうした小さな町が点在していて、昔からイタリア人とスロヴェニア人が混在して住んでいたそうだ。
ちなみに、第二次大戦後に連合国とユーゴスラヴィアによってトリエステは分割統治される。その国境が確定したのは、1954年になってからのことである。

2007.6



 パスポートチェックも無事に終わると、車窓はもうだいぶ明るくなっていた。列車がトリエステの駅に到着したときには、すでに同室の若者たちは、別のコンパートメントにいる友人のところに行っていたようだった。
 私は眠い目をこすって駅を出た。朝だというのに、トリエステの空が、びっしりとうろこ雲におおわれているのが印象的だった。トップの写真である。

 それから数年後。ユーゴスラヴィア連邦に内戦が勃発する。まっさきに独立を宣言したスロヴェニアでも、次いで独立を宣言したクロアチアでも、連邦軍との激しい内戦があった。
 新聞やテレビでそんなニュースを目にするたびに、私はあの夜行列車を思い出すのであった。そして思うのだ。あの「ハードロック」青年もまた、独立のための戦いに加わったのだろうか、無事でいるのだろうかと。


●所在地
フリウリ-ヴェネツィア ジューリア州(州都)・トリエステ県(県都)
●公共交通での行き方
・ヴェネツィアから鉄道で約2時間。
・トリエステ空港からバスで約40分。

●見どころ
・オーストリア・ハンガリー帝国の残り香を感じさせるイタリアっぽくない町並み。
・路面電車兼ケーブルカーに乗って丘の上にあるヴィッラ・オピチーナに行く途中は眺めがいい。

●老婆心ながら
文学好きならば、この町に英語教師として住んでいたジェームス・ジョイスと、地元の作家イータロ・ズヴェーヴォの交流の跡を探るのも一興。あるいは、須賀敦子さんの「トリエステの坂道」の文庫本を右手に、同女史訳の「ウンベルト・サバ詩集」を左手に持って散歩するもよし。
町の中心部を俯瞰丘の上にある保養地ヴィッラ・オピチーナで見かけたイタリアとスロヴェニア語が併記された案内板。
*写真にポインタを合わせると、案内板を拡大します。
  2007.6
2004年5月作成
2011年5月写真・内容更新

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