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私鉄ローカル線
タイトル

中津町のデ2 ひっそりとした中津町駅に停車しているデ2(デ1形)。
1924(大正13)年の開通に合わせて新製された4両の生き残り。晩年は機関車代用として、貨車の入れ換えに当たっていたそうだ。

1974.8

京福電気鉄道 叡山本線・鞍馬線(叡山電鉄)路線図

-- 岐阜の山に分け入る電車 --

 北恵那鉄道は、その名のとおり、岐阜県の東部にある恵那地方の北を走る鉄道だった。長野県との県境にも近く、起点の中津町は中央本線(中央西線)の中津川のそばにあり、木曽路の南端に接するような位置にあった。
 残念ながら、ここを訪ねたときには、すでに日中の運用がなく、主に通学客のために朝夕数往復の列車が走っているだけだった。今だったら、どうにでも時間をやりくりして乗ったはずなのだが、まだ高校生だった私は、中津町で写真を撮るだけで満足してしまった。
  乗っていないものだから、左のような路線図を書いても虚しいのだが、少なくとも木曽川を渡る長大鉄橋は見ておきたかったものである。この路線が廃止されたのは、1978(昭和53)年のことであった。

訪問:1974年8月

中津町の時刻表 中津町の駅舎内
中津町駅の駅舎内。上の時刻表でもわかるように、すでに日中はバス代行となっていた。
1974.8


中津町のク82 ク82。もとは三河鉄道(現・名鉄三河線)が1936年に製造したガソリンカーだったそうな。エンジンを取り外したのちに、1963年に北恵那鉄道にやってきたという。
1974.8

中津町駅構内にある車庫。拡大してみると、左がモ561、右がモ564とナンバーが読める。北恵那鉄道の主力だったモ560形だ。
名鉄瀬戸線の前身である瀬戸電気鉄道からやってきた車両だそうだ。
1974.8
中津町の車庫
▼拡大
モ560形

中津町の車庫 すでに、1日6往復しか走っていなかったにもかかわらず、車庫の中にはかなりの数の車両がぎっしりと置かれていた。
1974.8

デ2は、正面中央のへそのような出っ張りが特徴。ボール集電だった当時に、ポールを操作用するためのコードを巻き取るもの。トロリーレトリバーと呼ばれている。
すでに集電装置はZパンタ化されていたが、トロリーレトリバーは残されていた。
1974.8
中津町のデ2


 地味な鉄道だったが、典型的なローカル私鉄として、今になってからのほうが人気が出ているような気もする。
  だが、私が撮った写真は結局これだけ。車庫にいる車両も構内の様子もくまなく撮ることなく、帰途についたのだった。もったいない。訪問したのが列車の走らない日中だったので、駅舎にも車庫にも人っ子一人おらず、ずかずかと奥まで入っていくのがためらわれたこともあった。
  今考えてみると、もっとここで粘って、夕方の列車に乗ったり撮影したりするべきだったが、後の祭りである。
 
  もっとも、北恵那鉄道の中津町に立ち寄ったのは、木曽森林鉄道を訪ねた帰りのことだったことを考え合わせてみると、しかたのないことだったかもしれない。失礼ながら、木曽森林鉄道の奥地を歩きまわってきた直後に、北恵那鉄道くらいで感激してはいられない気分だったのだろう。残念な話である。

 訪問時にはすでに日中バス代行になって、廃止も間近だと思っていたが、これから4年もがんばったのは意外であった。

-参考図書-
  『北恵那鉄道』(清水武 ネコ・パブリッシング)



 



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