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私鉄ローカル線
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タイトル


最初の訪問から4年後、大学生になった私は、秋の試験休みを利用して一人で訪れた。
これは、終点の津軽中里駅。失礼ながら、どんなさびれた駅なのかと想像していたら、意外に開けたところにある駅であった。このあと、私はバスに乗り換えて小泊村の森林鉄道跡を目指した。
1977.10 

津軽中里駅のキハ2400形

津軽中里駅のナハフ1200形客車

これは、客車のナハフ1200形。西武鉄道の電車(クハ)を改造したものだという。
このときは、2両の客車が2両のディーゼルカーに引かれて走っていた。終点の津軽中里駅に着き、すでにディーゼルカーが切り離され、反対側に付け替えられる(専門用語でいう「機回し」)を待っているところである。
1977.10 
ナハフ1200形の車内。朝の下り通勤・通学時間帯だったが、学生が降りて車内はがらんとした。
1977.10 

ナハフ1200形の車内

津軽中里出発

ディーゼルカーの付け替えが終わり、津軽中里から折り返していく列車。
1977.10 
金木駅の隣、芦野公園駅付近を走る列車。春には、このあたりで満開の桜に囲まれて走る。金木には太宰治の生家があることで有名だ。
ちなみに、このキハ2400形は、旧国鉄のキハ20系に準じて設計された車両で自社発注車。津軽鉄道には、のちに国鉄のキハ22も入線することになる。
1977.10 

芦野公園付近を走る



五所川原のバス待合室
五所川原のバス待合室 1983.8 

 最初の訪問のときのこと。友人とともに、上野駅発の夜行急行「津軽」に乗り込んだところ、元旦の夜行ともあって車内はがらがら。われわれのボックスの斜向かいには40代くらいの男女3、4人が乗っていたのを覚えている。

 上野を発車した直後、確かにその人たちは、よくわかることばを話していた。だが、1時間もすると酒がまわってきたのか、すでに私たちにはまったく理解不能なことばで会話が交わされていることに気づいた。中国語のようなフランス語のような響きで、ごくたまに知っている単語が交じる。
「おお、これが、かの有名な津軽弁か!」
 同じ東北でありながら、それは福島出身の祖父母が語ることばとは、まったく異なる魅力的な響きを持っていた。まあ、これが私の初めての“津軽体験”なのである。

 津軽半島には、ここに示した以外にも何度か足を運んだのだが、津軽鉄道の写真はこの程度しか撮っていないのが残念である。乗車券
 たぶん、乗ることに夢中だったのが大きな原因だろう。
 そして、もう一つの理由は、津軽半島の森林鉄道跡の探索を優先したことだ。古い地図を見ると、津軽中里駅あたりでも交差していたはずだが、残念ながら遺構は発見できなかった。

 2003年になって久し振りに津軽鉄道を訪問してみると、ディゼルカーが一新されたことに感動。それでも、やはり乗客の数が減っているようで、経営も厳しいようだ。
 以前にくらべて沿線の町の家並みは近代化されたが、むしろ30年前のほうが活気があったような気がする。
 とくに、今でも印象に残っているのが、雪晴れの朝、広々とした風景のなかを、五農校駅で下りた五所川原農林高校の何十人という生徒たちが、学校までの道筋を、まるで隊列を組んでいるかのように縦一列になって歩いていた光景である。

 車両は変わったが、いまも冬になるとストーブ列車が走っている。東北新幹線で東京駅の始発に乗れば、うまく接続するようにダイヤが組まれているという。ぜひ、もう一度乗りに行きたいものだ。
 夏には、我慢大会をかねた「夏のストーブ列車」も走るそうである。

2005年5月作成
2008年10月一部修正

津軽鉄道公式ホームページ
津軽鉄道応援ホームページ「つてつの津

-参考図書-
 『鉄道ピクトリアル 1997年4月臨時増刊号 特集:東北地方のローカル私鉄』
  (鉄道図書刊行会)


 


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