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上野から北海道へ  (1975年3月)

上野駅の急行「八甲田」 急行「八甲田」を牽引するEF57


現役での大学受験は、残念ながらというか、当然のように落ちた。そんなことは折り込み済みで、同級生と7人で春休みに北海道に行くことにした。蒸気機関車が最後の活躍をしていたころである。
 想定外だったのが、全員が大学を落ちるはずだったのに、一人だけ第一志望に合格したことであった。模擬試験では合格可能圏よりも下だったにもかかわらずである。旅行の間、本人は何かというと恐縮していたが、そんなことを気にしないおおらかな私たちであった。
 上野駅からは夜行急行「八甲田」で青森へ。当時の均一周遊券では、行き帰りも周遊区間内も特急は使えなかった。旧型客車のボックス席の硬いシートに陣取り、青森まで11時間の旅である。黒磯までの直流区間を牽引するのはEF57であった。



夜の青森駅 青函連絡船


盛岡を過ぎたあたりで、薄暗い車内で車掌さんが「乗船名簿」用の用紙を配るのもお決まりのこと。万一、船が遭難したときの身元証明用だったのだと思うと、ちょっとドキドキするような気分である。
 当時の急行「八甲田」は上野駅19時10分発、青森駅が翌朝6時15分着。青森からは7時30分発の青函連絡船で函館着11時20分に乗船したので、北海道上陸まで合わせて16時間かかった。
 右(小画面では下)の写真は、その日の夜に函館駅で撮った写真。海側から北(五稜郭方面)を向いて撮ったものだ。



江差線神明駅 江差線神明駅


函館からは夜行列車で夕張線に行くつもりだったので、当日の午後は函館近郊をぶらぶらすることにした。今ならばどこかの観光地に行くところだが、鉄道少年が選んだのは江差線。江差まで行って帰ってくる時間はなかったので、適当なところで折り返してこようと考えて決めたのが神明駅だった。
 函館駅で駅そばを食べ、駅の付近で函館市電の写真を何枚か撮ったのち、午後イチの列車で向かった。上の写真は2枚とも神明駅から撮ったものだ。
 江差線の木古内~江差は、北海道新幹線の開業を前にして2014年に廃止されたが、その前から神明駅は「秘境駅」として知られるようになったようだ。駅の写真を撮っていないのが残念である。



小樽駅を発車する特急「北斗」 駒ヶ岳駅を通過する特急「北斗」


ここからあとの写真は、北海道をあちこちめぐってきた帰りに撮った写真である。この2枚は、キハ82系の特急「北斗」。左の写真はどこで撮ったのか記憶にないのだが、左には貨物側線もあり、かなり大きな駅である。前後の写真から推測すると、森駅を通過する下り特急「北斗2号」だろうか。右は、駒ヶ岳駅で乗っている列車が停車中にやってきた下り特急「北斗3号」である。



駒ヶ岳駅で長時間停車する普通列車 函館本線の貨物列車


われわれが乗ってきたのは、左の写真の普通列車函館行き。単行のキハ24だろうか。右は、やはり駒ヶ岳駅か。だとすると、ホームから停車中に撮ったDD51牽引の下り貨物列車である。貨物列車がくるとは思わず、あわてて後追いで撮ったのかもしれない。「戸口から戸口へ」と書かれた初代の緑色のコンテナが懐かしい。



東北本線の普通客車列車
好摩駅のスロ88


総勢7人の旅行だったが、九州のときと同様、各自気ままに離合集散を繰り返して、帰りの青森からは一人旅となった。
 左の写真は、青森から八戸行きの普通客車列車に乗り、どこかで下り青森行きの列車とすれ違ったところだ。当時の普通列車、とくに客車列車は時間をかけてゆっくりと走ったものだった。スマホもゲーム機もない当時、旅先でもものを考える時間は山ほどあった。「対向列車の窓に映る人の顔を見ながら、あの人たちはどこに暮らしていて、何をして、どこに行くんだろう」などと取りとめもなく思ったものである。
 右は、途中で降りた好摩駅でたまたま見かけたスロ88のトップナンバーである。いわゆるお座敷列車のはしりで、畳敷きの団体向け列車だった。もしかすると、この客車を見かけたから降りたのかもしれない。三軸ポギー台車であることがよくわかる。



2021年3月公開


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