宗谷本線、天北線 (1975年3月)
札幌から夜行急行「宗谷」で向かったのが稚内である。まず、その手前の抜海駅で降りて撮影。抜海付近は広々とした風景が広がるということだけしか知らなかったが、駅の南側に小高い丘があって、そこに登ると線路が見わたせそうだった。抜海駅から2kmほどの地点である。
これは大当たりで、このような風景が撮れたのであった。結局、撮影したのは2、3本ほどだったが大満足であった。上の2枚の写真は、名寄方面(南側)からやってきた下りの貨物列車。車掌車1両と無蓋車4両という短い編成の貨物列車を牽引しているのは9600形。無蓋車の積み荷は石炭のように見える。
当時のメモを見ると、抜海には6時間ほど滞在していたようだ。そのうち少なくとも3時間はこの丘の上にいたような気がするのだが、どうやってヒマをつぶしていたのだろうか。まあ、友人たちとわいわい楽しんでいたのだろう。
上の2枚の写真のうち、左(小画面では上)はさきほどの列車の後ろ姿で、行く手に海が見えている。抜海駅は、画面右奥にある。
右の写真は丘を降りて撮ったもの。タンク車が連なっている。ここまではコダックのネガカラーフィルムの写真である。
35mm一眼レフととともに、6×6判の古い二眼レフ、リコーフレックスも持っていった。1950年代のお手頃カメラだったので、レンズを開放近くにすると写真にならない。それでも、8以上に絞るとなんとかなるので、金のない高校生としては奮発して、感度も値段も高いブローニー判のトライXを詰めていった。
右の写真は、稚内駅からさらに北に歩いて、日本最北端の車止めを撮ったもの。とくに何ということなない雑然とした場所であった。今思えば、稚内駅や駅前の町並みを1枚も撮っていないのが残念至極である。
稚内では、ノシャップ岬に近いユースホステルに1泊。そこは、夕食が1年中カレーライスということで有名な宿であった。同行の友人が、「柱にカレーがこびりついている!」と大発見したような叫び声をあげていたのも懐かしい。
翌日は、天北線に乗って曲淵へ。天北線にはすでに蒸気機関車は走っていなかったが、行きとは別のルートで南下しようと考えたわけだ。なぜ曲淵で降りたかといえば、ここと隣の小石駅との間が、当時の日本最長駅間として知られていたからだと思う。
メモによると、ここに10時過ぎから17過ぎまで7時間滞在していたようだが、撮った列車写真はこの1枚しかない。あとは、友人たちとこの丘のうえで、そりすべりをしている写真ばかりである。曲淵駅や集落の写真を撮っておかなかったのが、残念至極である(こればっかり)。
そして、生まれて初めてのポジフィルムで撮影。コダックは値段が高かったので、フジクロームである。最初の何コマかは、なんと前述のそりすべりの様子なのだが、その次に撮ったのがこの音威子府駅構内の写真である。17時9分に曲淵で乗った普通列車が音威子府に着いたときは、すでに20時を回っていた。ここで旭川行きの急行「礼文」に乗り換える30分の間に撮ったのがこの2枚である。
手持ちでは無理なので、跨線橋に乗せて撮ったと記憶している。左は、入れ換え用の9600形機関車。スローシャッターで煙が流れて、きれいな写真になった。右は、われわれが乗ってきた天北線の列車である。
2021年3月公開
Copyright © Takashi FUTAMURA