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東京 -昭和の記憶-
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タイトル
 

 墨田区京島は、京成電鉄押上線、東武鉄道亀戸線、曳舟川通り、明治通りに囲まれた半月状の地域に付けられた名前で、一丁目から三丁目まである。かつての寺島四丁目、吾嬬町西一丁目・四丁目にあたり、空襲で大半が焼失した墨田区(旧・本所区+向島区)にあって、奇跡的に焼け残った地区である。
 そのため、1980年代までは戦前に建てられた木造住宅があちこちに残り、路地が複雑に入り組んで、かつての下町の風情をよく残していた。

   *   *   *   *
 京島二丁目は、京島地区の押上側にあたる。一丁目が再開発で大変貌を遂げ、三丁目では少しずつ道路の拡幅や集合住宅化が進んでいるのに対して、二丁目の変化はそれほど大きくない。木造住宅が密集しており、地盤が軟弱なせいもあってか、震災時の建物倒壊危険度が都内でトップとされている。
 戦争で焼け残ったことで、かえって現在の災害リスクが高くなっているというのは皮肉なことである。昔の雰囲気も残ってほしいが、安全性も高まってほしいという矛盾した気持ちになる。

 隣接する地区については、「京島一丁目」「押上~業平橋」「墨堤~向島界隈」が公開済。「京島三丁目」については、追って公開します。

*写真にマウスポインタを置くと、同じ場所の2017年の写真が見られます。


東武亀戸線の踏切

東武亀戸線の踏切。手前側が押上三丁目。かつては、曳舟と小村井の間に、虎橋通と十間橋通という2つの駅があったそうだ。
この踏切は、その2つの旧駅の中間にある。高齢と思われる和装のご婦人がなんとも粋である。

1983/06(2017/12)



上の写真の中央に写っている家。このあたりには、このような板壁の家やその先に見えるような木造の長屋が連続していた。

1983/06(2017/12)

板壁の家が続く

踏切を東武亀戸線の列車が通過

1枚目の写真の踏切を反対側から見たところ。東京大空襲で、東武亀戸線の向こう側(現・押上三丁目)はほぼ焼失したが、手前側(現・京島二丁目)は焼け残った。
木造の長屋は数少なくなったが、まだまだ残っている。

1984/09(2017/12)


上の写真の狭い道から、さらに脇に入る狭い路地。こちらのほうは、ずいぶん変化している。

1984/09(2017/12)

狭い路地

橘銀座商店街の北端

京島三丁目から続く商店街の橘銀座通り(現・キラキラ橘商店街)。京島二丁目側は、かなり商店が少なくなって寂しくなってしまった。

1981/03(2017/12)


この道を直進すると東武亀戸線の踏切となり、戦前まではそこに虎橋通駅があった。そして、この道が虎橋通り(今ではそう呼ぶ人もいない)。この狭い裏通りが、明治末期から大正時代にかけて、旧・吾嬬町を南北に貫くメインストリートだったことは、「押上小学校」のサイトに詳しく記されていて興味深い。

1982/02(2017/12)

虎橋通り

 


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