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東京 -昭和の記憶-
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タイトル 
 

 町歩きを旨とする下町の人間ならば、さぞ月島や佃島に何度も足を運んのだろうと思われるかもしれないが、恥ずかしながら1990年代になるまで、ほとんど行ったことがなかった。理由はよくわからないが、たぶん自分が住んでいるのと似たような場所だろうということで、後回しになってしまったのだろう。

 それ以前に、たまたま月島で写真を撮ったのが、このページの最初の4枚(3枚目は晴海だが)である。晴海の国際展示場で開かれていたモーターショーの帰りに立ち寄ったのである。
 いまになってみれば、もっとおもしろい街並みがあっただろうにと思うのだが、当時はまだ中学2年生だったからしかたがない。

 その後、月島はもんじゃ焼きで有名になり、もんじゃといえば月島とまで言われるようになった。私が子どものころは、もんじゃなんて5円か10円を払って駄菓子屋の隅でやましい気分で食べるものだったし、親や学校の先生からは不衛生だから食べないようにと言われていた存在だったから、これには驚いた。変われば変わるものである。

*写真にポインタを置くかタップすると、同じ場所の2015年の写真が見られます。


勝鬨橋東詰

勝鬨橋の東側(月島側)から、勝鬨橋を望む。当時はまだ、たまに勝鬨橋が開いていたということをあとになって知った。現在の住所は「勝どき」だが、ここも本来は月島のうち。
懐かしい顔のこのトラックは、いすゞのTP-EだかTD-Eという型らしい。

1970.11(2015.3)


都電23番の終点、月島停留場。当時の都電を代表する6000形の原型を保つ6205号車。
かつて月島通八丁目と呼ばれていたこの電停は、現在の都営地下鉄大江戸線・勝どき駅前の交差点。休日とはいえ、車がほとんど写っていないのが、いまから考えると驚き。

1970.11(2015.3)

月島交差点(現・勝どき駅前交差点)

晴海・小野田セメント工場前

上の写真から運河を渡り、晴海に向かったところ。美濃部カラーの都バスが晴海の国際展示場に向かう。
バックは小野田セメント(現・太平洋セメント)の工場。現在の晴海トリトンの向かいに位置しており、ザ・パークハウスが建設中。

1970.11(2015.3)


月島交差点(現・勝どき駅前)の北東に位置する初見橋交差点(月島駅前)に向かう途中、月島橋から北西側を眺めたところ。

1970.11(2015.3)

月島橋から

初見橋交差点南側

初見橋交差点(地下鉄月島駅前)の南西側。清澄通りの両側には、昔ながらの商家が軒を並べていた。
これだけ広い通りに古い家が建ち並んでいるのは、東京では珍しかった。

1992.9(2015.3)


銅板葺きの商家が並ぶ。奥の大きな建物は1973年に建て直された月島サマリア病院(現・中央サマリア病院)。
2015年現在、天空を見上げると、52階建てタワーマンション「勝どきビュータワー」が姿を現している。

1992.9(2015.3)

初見橋交差点南側

 


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