マルケ州の州都アンコーナからアドリア海にそって南下するイタリア鉄道に乗り、ポルト・サンジョルジョという駅で下車。ここからフェルモまではほぼ直線の道路で約6キロ。
路線バスの車窓には穏やかでとりとめのない風景が広がるが、30分ほどすると一転して丘の上に広がる古めかしい町並みが見えてくる。これがフェルモである。
実は、初日はローマ・ティブルティーナ駅前のバスターミナルから、アペニン山脈を横切る直通高速バスに乗ってフェルモに到着したのであった。途中、地震からの復興途上で、大型クレーンが何台も稼働しているはラークイラの町が遠目に見えたのは感無量だった。
高速バスが着いたのは、旧市街の東側にあるサン・フランチェスコ教会の前。旧市街はそこから坂を登った丘の上にあるのだが、城門をくぐったとたんにルネサンス時代に形づくられたという町並みが、おそらくほとんど変わらない姿で目に入ってくる。
このフェルモの町は、フェルモ県の県都だ。確かに、イタリアには昔ながらの町並みを残す町は多いが、これだけの規模の町で、これほど昔のままに残されているところも珍しい。
重い荷物を引きながら、先の見えないくねくねと曲がりくねった坂道を登っていくと、突然目の前が開け、豪華な建物に囲まれた広場に出る。ここが、この町の中心であるポポロ広場だ。細長い長方形のこの広場は丘の頂上に近くに位置しており、北側には博物館のあるデイ・プリオーリ宮や図書館の建物、東西にはポルティコ(アーケード)が連なる商店、そして南側には市庁舎が取り囲んでいる。
予約したホテルは広場のすぐそばにあったが、ローマから3時間半のバス旅の疲れを癒すため、広場のテラスでビールを飲むことにした。それにしても、魅力的な広場である。イタリアにはほかにも数々の華麗な広場があるが、この広場ほど鮮やかでいながら落ち着ける広場はあまりないような気がする。
そうそう、フェルモ(Fermo)という名前は、現代イタリア語では「停止する、止まる」という意味。まさに、心落ち着く町に相応しい名前である。
町の起源は紀元前10世紀より以前の古代エトルリアに遡るとのことで、紀元前3世紀にローマの支配下に入る。フェルモという名前自体は、ラテン語で「忠実な」という意味の「firmus」に由来しているという説が有力のようであり、これはローマ帝国に忠実に従ったからともいう。
フェルモでは、ルネサンス時代そのままといわれる旧市街の町歩きが楽しくて、それだけで満足してしまったが、実は数ある建物の内部が素晴らしいということを帰って来たから知った。特に、豪華なアクイラ劇場を見損なったのは最大の不覚である。外側が地味なので、ついうっかり通り過ぎてしまった。またマルケ州に行く機会があれば、ぜひ見てみたい。
フェルモと、冒頭で述べた鉄道駅のあるポルト・サンジョルジョとの間は、現在は路線バスで結ばれているが、1956年まではここに私鉄が走っていた。さらに内陸に向かう路線から分岐した支線は、フェルモの町なかでは路面を走り、町の南部と北部をトンネルで結んでいたようである。今でも、そのトンネルの開口部が道路脇に残されていて、入口には蒸気機関車を思わせる造形物が置かれていた。
夕日が見える町南部の広場に集まっていた親爺軍団の一人と目があったので、この鉄道のことを聞くと、かすかに覚えているようで、「この道の上を走っていてね、あのへんに駅があったんだよ」と教えてくれた。ちなみに、終点のある町北部には、バスターミナルの片隅に終着駅の建物が残されていた。
さて、地味なマルケ州らしく、静かな町と思われたフェルモだったが、夜になってその印象は一変した。何かのお祭りの日だったようで、広場には所狭しとテーブルと椅子が並べられ、広場には町中の人が繰り出したかと思われるほどの賑わいとなった。デイ・プリオーリ宮の前ではミニ野外ロックコンサートが開かれ、人びとはビールを飲みながらピッツァを食べていたのであった。
私と妻は、たった2泊するだけの通りすがりの観光客だが、その賑わいに便乗してしこたまビールを飲んでいい気持ちになったのである。
そうそう、これだけたくさんの人が集まりながら、イタリアの大都市と違って若者が羽目をはずすことなく、人びとがどこか落ち着いた振る舞いだったのが印象的だった。