オートラントは、イタリアのかかとにあたるサレント半島の東海岸にある町だ。イタリア最東端のパラシャ岬は、ここから7kmほど南に位置しているが、少なくとも人が集まって住んでいる土地としては、ここオートラントが最東端である。
スドゥ・エスト(南東鉄道)鉄道の支線の終点となっており、レッチェから1回または2回乗り換えが必要となる。ガッリーポリ方面に向かう列車が南下していくと、途中で何本もの支線が分かれていくのだが、それぞれ分岐駅できちんと接続をとっているので、あまり不便さは感じない。
オートラントからアドリア海の対岸にあるアルバニアまでの距離は、わずか70kmほど。そのために、これまでにこの町は大変な災禍を何度か経験している。
なかでも重大なのは、1480~81年に起きたオートラントの戦いである。メフメト2世の治世のもとで最大版図を誇ったオスマン帝国(オスマン・トルコ)の軍勢が、海を渡ってオートラントに襲来した大事件である。オートラントは落城して、市民800人がイスラム教への改宗を拒んで殺害された。
実は、このオートラントの戦いの勃発には、いくつもの伏線があった。一つは、歴史上でもよく知られるコンスタンティノープル(現・イスタンブール)陥落である。オートラントの戦いの30年近く前の1453年、オスマン帝国メフメト2世によって東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡した事件である。これが、ヨーロッパ史の大転換期につながる。
一方、バルカン半島のアルバニアでは、メフメト2世に抵抗しつづけたアルバニアの英雄で天才的な戦略家・戦術家であったスカンデルベグ(ジェルジ・カストリオティ)が、1468年に病没。独立を守っていたアルバニアも、1480年にオスマン帝国に併合されてしまう。
海の向こうでそんなことが起きていたのはわかっていたはずだが、当時プーリアを支配していたナポリ王国はメディチ家支配下のフィレンツェに対抗することに追われていた。
1478年、ナポリ王フェルディナンド1世は教皇とともにフィレンツェを攻撃。 しばらく続いた戦いののち、1480年にフィレンツェのロレンツォ・ディ・メディチがナポリを訪問してナポリ王と和解するに至った。
だが、その直後の1480年7月、ナポリ王国の警備が手薄になっていたオートラントにオスマン帝国軍が襲来したのである。前述のように、捕らわれた市民800人が改宗を拒んで殺害されるという痛ましい結果になる。
1481年5月になって、ようやく体勢を整えたナポリ王国を中心とする軍隊が、オスマン軍の占領下にあったオートラントを包囲。同月にメフメト2世が死去したことやオスマン軍の内部分裂も手伝って、 1481年9月にナポリ王国がオートラントを奪還したのである。
そんな歴史を知ると、保養地には不釣り合いな巨大な城砦が、湾に沿ってそびえている理由もよくわかる。小さな旧市街に狭い道が迷路のように入り組んでいるのも、外敵を惑わすためなのかもしれない。
床に描かれたモザイク画で有名なドゥオーモの片隅には、改宗を拒んで殺された800人の犠牲者のしゃれこうべがびっしりと積み上げられている。
もちろん、観光客で賑わう現在のオートラントからは、そんな大昔の血なまぐさい出来事を感じさせるものはない。
海岸べりは風が強くてたまらないのだが、町なかに一歩入ると、起伏に富んだ旧市街の町並みが落ち着いた気分にさせてくれた。
陽光降り注ぐだろう夏もいいけれど、季節外れのオートラントもいいんじゃないかと勝手に決めつけた私である。
センスのよさそうな石細工の店に入ると、これは近くでとれる白い石(凝灰岩か?)を使っているのだと教えてくれた。石でできたブックスタンドやランプシェードにも心をひかれたが、持って帰るには重そうである。結局、小さなネコの彫り物を1つだけ買うことにした。