日中線 (1974年4月)
4月に入り、始業式がはじまる直前に夜行日帰りで乗ってきたのが、磐越西線の喜多方を起点として熱塩に至る10kmあまりの日中線である。上野から夜行の急行「ばんだい」で会津若松へ。日中線の始発列車だけは会津若松だった。
左(小画面では上)の写真は、熱塩行きの下り列車の車内から撮ったもの。鉄橋がカーブしている。右(小画面では下)は、終点の熱塩駅の遠景である。
終点の熱塩の近くには熱塩温泉があり、その数キロ先には線名の由来となった日中温泉がある。かなり昔から朝1往復、夕2往復の計3往復のみ。「日中に走っていないのに日中線」とよくいわれていたものだった。
機関車は会津若松機関区のC11、客車はオハ61系の旧型客車3両編成だった。左の写真は熱塩駅の改札口を撮ったもの。その時刻表を拡大したのが右の写真。時刻表の右側は到着時刻、左側は発車時刻を示している。
これは、終点の熱塩で機回しをしているところを撮った写真だと思う。機関車はC11の19号機。1971年に只見線の小出駅で見た機関車である。当時とくらべて、ヘッドライトが小型のシールドビームになったのが少し残念。
1日に3本しか走らない列車の走行写真をどこでどう撮ったのか、まったく記憶にない。また、列車がない昼間は何をやっていたのかも記憶にない。
たぶん、朝はそのまま列車で会津若松に戻り、夕方にまた出直したのだろう。最終列車に乗るとその日にうちに東京に帰れないので、並行するバスに乗ったのかもしれない。
すでにSLブームが絶頂となっていたころだったから、日中線にもファンが殺到しているかと思ったら、意外にもそれらしき姿は数人を見かけただけだった。春休み中だったからか、地元の学生の姿も見えなかった。
オハ61系の客車の明かりは白熱灯。車窓には茫漠とした雪景色が見えるだけだった。
時代に取り残されたようなこの路線だったが、1974年10月には蒸気機関車からディーゼル機関車牽引に代わり、さらに1984年3月末限りで廃線となった。
昔の旧型客車は、最後尾の連結部にドアはなく、左の写真のように外の景色が丸見えだった。それでも、列車のスピードが遅かったから大きな問題はなかったのだろう。
右の写真は、会津若松で見た旧型客車。狭い窓が並ぶスハフ32である。
この2枚も会津若松で撮ったもの。左はED71(26号機)、右はED75(1033号機)である。どちらも交流専用機なので東京都区内では見ることができず、派手な赤い色とともに珍しく感じられたものだった。
2020年3月公開
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