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駄菓子のイタリア無駄話目次
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 通っていた語学学校には、日本人が全部で5人いた。クラスは全部で20教室ほどあったのだが、なぜか私のクラスにそのうちの3人が固まっていた。1人は安下宿で同室となったS氏、もう1人は靴のデザイナーのM子さんである。
 M子さんはだいぶ前からイタリアに来ており、市内のアパートでカメラマンのイタリア人と同居していた。不思議なことに、日本の女性はすぐにイタリア男を見つけるのだ。私とS氏との美しくない同居生活とは大ちがいである。
 そんなある日、私たちは、M子さんに夕食を招待され、彼女が住んでいるアパートに出かけた。そこは、歩いて10分ほどのところにあり、質素でなかなか好ましい部屋であった。そして、イタリア人のカメラマンは、意外にもおっとりとした好感のもてるやつだった。
 まあ、そんなことはどうでもよかった。当時は、色気よりも食い気に燃えていた私である。日ごろろくなものを口にしていなかったせいもあって、勧められるままに欠食児童のようにイタリア家庭料理をむさぼり、ワインを飲みまくったのである。
 話に花が咲き、帰ってきたのはもう夜もかなりふけたころであった。いい気持ちでS氏と安下宿にもどってきた私は、そのままベッドに倒れこむようにして寝ることになる。
 事件が起きたのはその夜のことであった。

なんとなく不条理な光景 当日は、こんな夢を見たような気が……。
アレッツォにて。

撮影 : 1981/10 Arezzo

 夜中に目覚めた私は、胃のあたりにひどい不快感をおぼえた。
----き、気持ち悪い……。ううっ、こりゃ待ったなしだ。
 ところが、安下宿ゆえ、トイレは共同である。部屋の中にあったのは小さな洗面台だけ。もはや、トイレに行く余裕はなかった……というより、何を考えるゆとりもなく、ふらふらと洗面台にたどりつき、顔を突き出すしかなかった。気がついたときには、夕食の変わり果てたモノが洗面台に山盛りになっていたのである。
----ふう、すっきりした。
 S氏はと見ると、人の苦労も知らず、すやすやと寝息をたてている。
 私は、ほっとして、出したものを流そうと蛇口をひねった。ところが、量が多かったためか、なかなかブツが流れていかない。これにはあせった。
 まあそれでも、けんめいになって格闘した結果、なんとか洗面台はきれいになった。ところが、こんどはたまった水がなかなかひいていかないのである。
----こりゃ、困ったなあ……。でも、疲れた。あしたになれば、なんとかなるだろう。もう、寝よう。
 だが、翌日になっても、なんとかならなかった。確かに、たまっていた水はひいていた。ところが、新たに水を出すと、その水は洗面台にたまってしまい、なかなか流れていかないのだ。
 しかたなく、洗面台はそのままにして、私はくらくらする頭をかかえて学校に出かけた。
 ところで、安下宿の部屋は、大家のおばさんが毎日各部屋を掃除してくれることになっていた。だから、水道をつまらせたことがおばさんに発覚するのは、時間の問題であった。
 その日の昼すぎ、びくびくしながら帰ってきたが、何も言われなかった。
 次の日もだいじょうぶだった。
 そのあいだも、なんとか水で流そうと努力をしたのだが、相変わらず流れが悪い。
 S氏は、最初からこんなものかと思っているのだろうか、何も言わないのも不思議である。
 だが、束の間の平和も長くは続かなかった。


せめて、美しい写真をお見せしようと思いまして……。
アッシージで見かけた家の窓。本文とは何の関係もありません。


撮影 : 1990/06 Assisi
アッシージの家の窓

 数えて三日目のこと。学校から帰ると、おばさんに手まねきされた。ドキッとした。そして、おばさんは、私たちの部屋に来て、洗面台を指さして言ったのである。
「あなた、ここに何か捨てたの?」
 来たーっ。
「す、す、すぃー」(←イタリア語のSi、すなわち「はい」である)
「イタリアじゃあね、水道屋を呼んでも時間がかかるのよ。来週直しに来るって言ってたけど……。日本じゃ水道屋はすぐに来るの?」
 西洋で人と話すときは、相手の顔を見なくてはいけないと言われて実践してきたが、このときばかりは、うつむいて、「はぁ、あー、うー」などとうめいているだけであった。おばさんは、そのあともぶつぶつ言っていたが、思ったほど怒っていなかったのを見て、少しはほっとした。
 幸いだったのは、おばさんに何を詰まらせたのか聞かれなかったことである。もっとも、聞かれたところで、ゲ□(←これはあくまでも伏せ字を示す四角であって、カタカナのロではありません)をイタリア語で何と言うかは知らなかったので、答えようがなかったのだが……。
 翌週には水道屋がやってきて、修理もつつがなく終わった。詰まっていたものが何なのか、そのときにわかったのではないかとも思うが、誰も何も言わなかった。
 こうして私は、フィレンツェ安下宿生活最大の危機を、無事に切り抜けたのであった。これもひとえに、それまでの約1か月間、地道に築いてきた信用のおかげである。
 ところで、水道の詰まりが発覚した日の夕方、散歩に出ようとする私は、安下宿の入口でおばさんに呼び止められた。
「あんたの友だち(S氏のことである)が来てからというもの、鍵はなくなるし、水道は詰まるし、あの人はだいじょうぶなのかい?」
 何と、おばさんは、同居人のS氏に疑いの目を向けていたのである。紛失した鍵というのは、家具の隙間に落ちていたのが2日後に発見されており、けっしてS氏の責任ではないことはおばさんも承知のはずであった。
 そこで、友情あつい駄菓子青年は、勢いよく首を振りながら、きっぱりと言ったのである。
「いや、いや、そんなことはありません。今回の件は、すべて私の責任なのでございます」
 ああ、私はなんと正直者なのだろう。……いや、よく考えてみればあたりまえか。
 というわけで、Sさん。これまで黙っていたけれど、おばさんの疑いはきちんと晴らしておきましたので心配しないでくださいね。


 


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