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駄菓子のイタリア無駄話目次
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 イタリアから帰ってきてから1、2か月間の私は、毎日を茫然と過ごしていたような覚えがある。
 何をする気にもなれず、ぼんやりとイタリアのことを思い出しては、帰ってきたことを後悔するばかり。それでも、なんとか力をふりしぼって、旅先で知り合った人に少しずつ絵はがきを出す“事業”に取り組んだ。もちろん、安トラットリーアで会った彼女に送ったのはいうまでもない。

 すると、1か月もしないうちに封書で返事がきた。はがきで返事をよこした人はいたけれど、封書でくれたのは彼女だけだった。
 封を開けてみると、薄っぺらい紙に手書きでびっしりとイタリア語が書かれているではないか。イタリア人の字はただでさえ読みにくいのだが、彼女も例外ではなかった。しかも、かなりこなれたイタリア語……のようである。私は首をひねり辞書をひき、読解をしていったのである。まあ、ヒマだったからよかった。

 手紙の内容はよく覚えていないが、手紙の最後に「返事をちょうだいね。×××」と書いてあったのが印象的だった。×がキスの印だということも、辞書でわかった。
----ふうん、なかなか色っぽいもんだなあ……。西洋人っていうのは、みんなこんなことを書くのかなあ。
 なんて思いながら、また懸命に辞書をひきながら、へたなイタリア語で返事を書いた。書き出しの部分は、彼女の手紙をちょっぴりまねしてみた。
 まあ、そんなやりとりが何回かあったのち、私がイタリアのポップスを好きだと書いたためだろう。彼女から、カセットテープが送られてきた。当時、イタリアで流行っていた最新のポップスである。レナート・ゼロ、クラウディオ・バリョーニ、リッカルド・コッチャンテなどなど。1980年代なかばは、イタリアの景気もよくなって、次々にいい曲が発表されていたころである。
 実は、そんなテープをもらわなくても、イタリアの最新流行曲は通信販売やら六本木のウェーブでLPを入手していた私であった。もちろん、インターネットの通販はおろか、CDもなかったころである。

ドゥオーモの屋根から見る

ドゥオーモの屋根から町の様子を見る。
撮影 : 1985/11 Firenze


 とはいえ、せっかくの彼女の思いやりである。私も日本の流行曲を中心にしてテープをつくってみた。
 当時は中森明菜や松田聖子なんぞがはやっていたころである。そんな流行歌に加えて、ちょっと流行遅れだけど沢田研二の「勝手にしやがれ」なんかも加えておいた。
----もうちょっと日本臭さがほしいなあ。

 というわけで、これまたちょっと古いけど、「神田川」と「なごり雪」も加えて完成。

----おお、これは素晴らしい! 外国人に日本の歌を紹介するときは、いつもこれでいくことにしよう。

 選曲に自己満足した私は、カセットテープをクッション入りの封筒に入れて、イタリアに航空郵便で送ったのであった。
 すると、また1か月ほどして返事がきた。
「送ってくれた日本の歌のテープは、とってもよかったわ。とくに、神田川となごり雪が気に入ったから、ギターで練習してるの」
 そんなことが書いてあって、ご丁寧に彼女がギターを弾いている写真まで同封されていた。そして、手紙の最後は、「返事を早くちょうだいね」ということばで結ばれていた。

----ふむふむ、やっぱり日本的なものに魅力を感じるのかな……そうだ、歌詞をイタリア語に訳してやろう。

 当時は本当にヒマであった。またもや辞書を引き引き、私は神田川となごり雪のイタリア語訳という画期的な作業に取り組んだのである。

----二人で行った横丁の風呂屋……かあ。「公衆浴場」でわかるかなあ……。海水浴場と区別がつかないかも……いやいや、イタリアにも温泉はあるし……でも、水着で入るんだからなあ。ちょっと違うかな。でも、まあ、ローマ時代にはカラカラ浴場なんかがあった国だからいいか。

 こんな具合だから、はたして元の歌の雰囲気がどこまで伝わったかは大きな疑問である。それでも、遠慮や気後れということばを知らない駄菓子青年である。そのまま、つたないイタリア語の手紙を送ったのであった。

 返事はすぐにきた。喜んでいるようだった。
 神田川となごり雪は、もうギターで弾き語りができるようになったという。

----いったい何語で歌っているんだろう。もしや、私の訳詩で歌っているんじゃあるまいなあ。それじゃ、イタリアじゅうに恥をさらすことになってしまうぞ……。

 ちょっぴり不安になった私である。その手紙もまた「返事を早くちょうだいね」と結ばれていた。
 返事をすぐに書きたいのはやまやまだが、こちらは懸命に辞書を引きながらイタリア語を書くのである。なんだかんだとやっているうちに、何か月もたってしまうのだ。
 やっと送ってほっとしたかと思うと、すぐさま返事がきて「返事を早くちょうだいね」。

 こんなことの繰り返しであった。まあ、お互いにたいしたことを書いていたわけではない。日本はそろそろ寒くなったのだの、イタリアはああだこうだ……といったたぐいである。それでも、イタリア語を書く機会のほとんどなくなった私にとって、ちょうどいい勉強ではあった。

 そういえば、彼女が空手のイタリア大会で勝ち進んでおり、「優勝すれば日本の武道館で行われる世界大会に出場できる」という手紙がきたことがあった。「ぜひ、日本を案内してね」とのこと。
 どこを案内すればいいだろうと来る日も来る日も考えて、そわそわしていたのだが、結局、彼女は日本を訪れることはなかった。
 理由は手紙に書かれていなかったが、私の鋭い洞察力によれば、彼女は優勝できなかったにちがいない。

ドゥオーモの見える道 ドゥオーモの東側、このあたりまで来ると、ふだん着のフィレンツェ人の姿が見られるようになる。

撮影 : 1985/11 Firenze

 そうこうしているうちに、私もいろいろと仕事を見つけて、だんだんと忙しくなりつつあった。返事を出す間隔が3か月、4か月と開き、とうとう年に1、2回くらいしか手紙を出すことがなくなってしまった。

 私から手紙を出すと、彼女からは間髪を入れずに返事が届くのだが、私が出さないうちは何か月たっても返事をよこさない。その点では律儀な人である。
 ところが、その法則がやぷられたことが2回あった。私が手紙を出さずに何か月も放っておいたところ、彼女から手紙がきたのである。

----あまりにも返事が遅いから、とうとうあきれられたかな。もう、あんたのところには手紙を出さないって、書いてあるんじゃあないだろうな。

 そんなことを考えながら、ミミズのはったような読みにくい字を解読していった私である。このころには、ミミズにもだいぶ慣れてきて、すらすら読めるようになったのだから恐ろしい。

----なになに、先日電車に乗っていたら、日本人のグループに会いました……ほうほう。ちょうど私はギターを持っていたので、あなたから教えてもらった歌を弾いたのです……。

 なんと、彼女は日本人のグループを相手に、神田川となごり雪を弾いたのである。日本人は、それはそれは大喜びで、みんなで大声で歌っていたのだという。
 当時は1980年代、神田川やなごり雪はまだまだ身近な歌であった。

 それにしても、その日本人グループは驚いただろう。いまと違って、イタリアのテレビで日本のアニメなどが放映されることもなく、日本のテレビでセリエAの試合が見られることもなかった。お互いにほとんど情報がなかったころである。
 そんな時代に、同じ電車に乗り合わせたイタリア人の女の子が、いきなりギターを取り出してちょっと前の日本の流行歌を弾くなんて……。
 できれば、その場に居合わせたかったものである。そして、どんな顔でみんなが歌っているのかを見たかった。もしかすると、いまでもその人たちは、楽しかったイタリア旅行の一コマとして、会うたびにその話をしているかもしれない。

----ふ、ふ、ふ。いいことをしたもんだなあ。そのうちに、この話があちこちに伝わって、「ダガシさま、あなたは日伊友好に尽力をなさいました。よってここに表彰いたします」なんて、政府に感謝されるかもね。副賞は、日本・イタリアを死ぬまでタダで往復できる航空券というのがいいなあ……。まあ、無制限じゃ困るだろうから、年に一回というのでもいいや。

 だが、残念ながらいまだに表彰の知らせはない。よって、私は身銭を切って、数年に一度なんとかイタリアに行ける程度なのである。

(つづく)


 


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