ある冬の午後、難民学校の語学教室が終わり、S氏とイッセイ君といっしょに教室を出てきたときのことであった。待ち構えていたらしい顔見知りのイタリア人学生に声をかけられた。難民学校に出入りしているボランティアである。 「時間はあるかい。ちょっといっしょに来ないか」 言われるままにあとを付いて建物を出た。そこには2台の車が用意されており、私たちはそこに別れて乗ることになった。私が乗った車には、最近になって難民学校に出入りするようになった声の大きい日本人の女子学生マユミさんと、コートジボアール出身のイブラヒムが座っていた。 例によって、大げさに再会を祝したのち、どこにいくのかを彼らに尋ねてみた。 「いや、知らないけど、何か楽しいことがあるらしいよ」 20分ほども乗っていただろうか、フィレンツェの郊外にある学校らしき建物の前で車が停まった。 車から降りてまわりを見まわすと、連れられてきた外国人は、日本人4人にコートジボアール人1人、そして顔に見覚えのあるイラン人2人であることがわかった。 さて、何をされるのかとぼんやりするまもなく、40代後半くらいのおばさまたち数人が出迎えてくれた。教室だか講堂だかに連れられていき、お菓子らしきものを食べながら、いろいろなことを話したような覚えがある。 | |
ウッフィツィ美術館からミケランジェロ広場方向を眺める。 撮影 : 1996/06 Firenze |
例によって、私は懸命に愛想をふりまいたのであった。妙齢のイタリア女性にはとんと縁がなかったが、おばさまと子どもにはどちらかといえば人気のあった駄菓子青年である。 「こんど、ぜひうちにパスタを食べに来てね」 「もちろんですとも!」 私は喜び、別の車でやってきていたS氏に向かって言った。 「Sさん、Sさん。ぜひ、ごちそうになりましょうね」 すると、S氏は、にやりと笑ってこう言ったのである。 「ダガシくん、あれはお世辞というもんやで。口だけや、口だけ」 「そうかなあ、イタリア人がお愛想なんか言うかなあ……」 食い物への執着心が人一倍強かった私は、S氏の発言には不満であった。 おばさまたちとの会話が一段落すると、こんどはグラウンドに連れていかれた。 そこでは、少年たちがサッカーに興じていた。薄暗い旧市街を見慣れた目には、青空のもと、広いグラウンドでサッカーをする少年たちの姿は、ちょっぴりまぶしかった。 我々が来たのに気づくと、彼らはゲームを中断して、まわりを取り囲んできた。 「どこから来たの、日本? へえー、こんどいっしょにサッカーをしようね」 「うん、うん、ぜひやろう」 中学や高校のクラス対抗では、フォワードとして活躍した私である。喜んで受けて立ってやろうと思った。 --ふふふ、パスタにサッカーか、ずいぶんイタリアになじんできた感じだぞ。 ここでもまた、小学生たちから「日本ではどんなものを食べているの」だの「日本語を教えて」だのとお決まりの質問に答えることになる。 そして、会話がはずんできたころに、ボランティアの学生が私たちのそばに寄ってきた。 「何か、日本の歌をうたってくれないか」 「おうおう、まかしとけ」 すでにごきげんな私たちは、二つ返事で請け合った。 だが、なかなかいい歌が思い浮かばない。数人の日本人は、ない知恵を寄せ集めて相談した。 「さくらさくらなんてどうや」 「うーん、もっと明るいのがいいのでは……」 「そうかぁ、荒城の月っていうのもなんだしなあ……。元気が出そうな日本の歌ってないかなあ」 |
ミケランジェロ広場からさらに上に登ると、観光客はぐっと少なくなってくる。 撮影 : 1990/08 Firenze |
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しばらく考えているうちに、私の頭に歌が思い浮かんだ。 「そうだ、“幸せなら手をたたこう”って、どうですか」 「おお、それがいい。元気がでそうやしな。ダガシくん、それでいこう」 めでたく曲が決まったところで、私が日本人を代表して、イタリアの小学生を前に、口から出まかせの演説をすることになった。 「えー、みなさん。日本とイタリアと世界の国々の友好のために、日本の歌をうたいます!」 「世界の国々」を含めたのは、コートジボアール人とイラン人に気をつかったつもりである。満場の拍手を得て、有頂天の駄菓子青年であった。 「♪幸せなら、手をたたこうっ……」 私たちがいっしょに歌いはじめて、ややあったときである。ギターを持っていたボランティアの学生が、いっしょに歌いだした。よく覚えていないが、こんなような歌詞であった。 「セ・フェリーチェ なんとかかんとか バッテ・マーニ...」 要するに、「幸せなら手をたたこう」である。 すると、それに合わせて、小学生たちが声を合わせて歌い、手をたたくのである。私たち日本人は顔を見合わせた。 「これって、日本の歌じゃなかったっけ……」 「イタリアにまで広まったのかも」 そんな我々の疑問にもかまわず、イタリア人たちは、さらに足をならし、肩までもたたいていたのであった。 結局、わざわざ車で連れていかれたにしては、あっというまの交流会であった。とはいえ、素顔のイタリアの小学生に触れるという点では、ささやかだけども楽しい体験でもあった。 「なんか、最後は拍子ぬけでしたよね。でも、まあいいか。盛り上がったんだし……」 こんなことを話しながら、私たちは帰りの車に乗り込んだ。 “幸せなら手をたたこう”の原曲が欧米のどこかの民謡らしいと知ったのは、日本に帰ってきたからのことである。げに無知とは恐ろしいものである。 それから数年間は、「日本の歌をうたいます」と偉そうに言った自分の姿を思い出すたびに、恥ずかしさに身がよじれそうな気分になった。 ところで、くだんのパスタのパーティーであるが、ついぞ招待を受けることはなかった。どうやら、イタリア人にもお愛想というものが存在するらしい。また1つりこうになった私であった。 そうそう、小学生とサッカーをすることもなかった。まあ、こっちのほうは、恥をかかずに済んでよかったのかもしれない。 |
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