夕張線 (1976年10月)
前年の北海道旅行と同じく、函館から夜行列車で未明の苫小牧に到着。早朝に苫小牧を発車する夕張線(のちの石勝線夕張支線)直通列車に乗車した。夕張行きと支線の登川行きを併結した編成である。夕張線の蒸気機関車は前回の訪問のあとで姿を消していたが、このときの目的は、前回乗っていない登川支線に乗ることと、沿線にある炭鉱のトロッコを探訪することであった。
左(小画面では上)は、確か追分駅ではなかったかと記憶している。編成が長いので、ホームをはみ出して停車している。
右(小画面では下)は、紅葉山駅(現・新夕張駅)停車中の様子。明け方の深い霧が幻想的だった。
紅葉山駅では夕張行きと登川行きの分割のためにしばらく停車し、タブレット(通票)の交換ののちに発車。2両編成となった登川行きは、途中駅の楓を経て10分ほどで終点の登川に到着した。
登川で下りた人はゼロ。すでに周囲の炭鉱は閉山となっており、近くに住んでいる人も少ないようだ。貨物側線は残っているが、1日に3本の旅客列車が発着するだけだから、使用されていない。もちろん、駅は無人駅となっている。折り返しまでの30分間。駅の周辺をぶらぶらするだけであった。
左の写真は登川の駅舎。右端にちらりと列車が写っている。歩いて買い物に行こうにも、駅の周囲には何もなかった。
右は、駅のホームからさらに100mほど奥に歩いて振り返ったところ。石炭積み出しのホッパーの跡が、くさむらの中に残っていた。
炭鉱の跡は、登川~楓の車窓からも見えた。かなり大規模なものだ。インクラインらしき跡も見える。このあたりの炭鉱はすべて姿を消したのかとがっかりしていたが、このあとで下車した楓駅の近くで、現役の小規模な炭鉱トロッコ(北炭楓鉱)を目にすることになる。
左は、その楓の炭鉱から、建設中の石勝線を眺めたところ。石勝線の開通は、この訪問の5年後の1981年10月であり、その3か月前に登川支線は廃止となった。登川と楓の中間地点あたりに石勝線の楓駅も設置されたが、残念ながら2004年に旅客営業を終えて信号場となった。
楓からは、紅葉山で乗り換えて夕張へ。その日は、鹿ノ谷付近の炭鉱トロッコを見て、三菱大夕張鉄道に乗車した。右の写真は、鹿ノ谷駅の跨線橋だと思う。
この2枚の写真は鹿ノ谷駅の待合室で撮ったもの。まだまだ利用者そこそこいて、風格ある待合室や跨線橋が残っていた。石炭列車もひっきりなしに往復しており、その後の凋落ぶりが信じられなかった。
こちらの2枚は三菱大夕張鉄道の接続駅である清水沢駅で撮った写真。夕方のホームには女子学生であふれていて、町の賑わいを感じさせる。中線には石炭を積んだ貨物列車が停まっていた。
2022年6月公開
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