そこは、旧市街の中心部に近く、古い集合住宅の3階にあった。
呼び鈴を押すと、しばらくしてドアが開き、背が高くて顔の長い五十代後半くらいのおばさんが出てきた。そして、何かひとこと早口で言った。
「○×△□」
当時の私の語学力では、そのひと言さえ聞き取れなかった。ただ、おばさんの不機嫌そうな低い声に、私はひどくうろたえた。
----しまった、ケチなことをしないで、もう少し値段の高いところにしておけばよかったか。
だが、いまさら後にはひけない。気を取り直して、必死にイタリア語を絞り出した。
「あ、あの、部屋を3か月ほどお借りしたいのでごぜえますが……」
すると、おばさんは何かいろいろ言ってくるのだが、悲しいことにまったく理解できない。
そこで考えた。
「あっしは、日本からイタリア語を勉強しにきました。でも、まだよく話せないんでございます」
こう言って、学校でもらった安下宿一覧表を見せることにした。そこには、何やらイタリア語で細かく書いてあったので、「下宿のおばさんにお願い----この紙を持参した学生には、やさしく応対してあげてください」なんていう一文もあるかもしれないと思ったからである。
はたして、本当にそんなことが書いてあったかどうかは知らないが、おばさんはしばらくその紙に目を通していた。
ややあって、おばさんは私の顔を見ながら、ゆっくりと言った。
「いいでしょう、でもいまはツインの部屋しかあいていないのよ。それも、来月には予約が入っているので、1か月でよければいいわ」
なにしろ、シベリア経由で2週間も旅を続けてきた身である。もう、ほかの下宿をまわる気力もなかったので、それで結構でございますということにした。
ツインの部屋といっても、1か月でたったの4万円。当時としてもかなり安かった。
「ツインでも、フィレンツェじゅうで、こんなに安く止まれるところはないわよ。学校で友だちを見つけて、いっしょに住むといいわ。そうすれば半額になりますからね」
話していくうちに、だんだんおばさんの愛想がよくなってきたので、私はほっとした。
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窓から見えるフィレンツェのドゥオーモ。
といっても、これは私のいた安下宿からの眺めではなく、畏れおおくもサンマルコ修道院からの風景である。
撮影 : 1996/06 Firenze
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部屋の内容も値段相応のもので、日当たりはもちろん悪く、バストイレは共同。薄暗い部屋にはベッドが2つ、そして机と洋服ダンスがついていた。
1つしかない小さな窓は、中庭らしき空間に面しているのだが、そこを通して見えるのはまわりの建物の壁ばかりである。それでも、窓の外に顔を出してみると、上のほうに青い空が少し見えた。
いまだったら、いくら安くてもこんな部屋を紹介されたら、1日で飛び出してしまうことだろう。
しかし、私は若かった。
----夏目漱石も、ロンドンに留学したときは小さな下宿に住んでいたのだ。
私は、いかにも自分が苦学生になったような気がして、薄暗い部屋にも満足だった。よく考えたら、日本でもそれまでひとり暮らしをしたことがなかったのだ。
----ここから、私の人生にとって重要なできごとがはじまるのだ。
こんなことを思って、ひとり陶酔していた駄菓子青年であった。まあ、たしかにそれはウソではなかった。
語学学校の開講まで、まだ数日あった。
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