フィレンツェに何週間か住むうちに、町のことはだいぶわかってきたのだが、どうしても解せない出来事が一つあった。 それは、週末の夕方によく目にする光景であった。 町を歩いていると、突然ガンガンという金属をたたく音がするのである。目を上げると、バスの窓から少年たちが身を乗り出して、奇声をあげながらバスのボディをたたきまくっているのだ。しかも、バスのあちこちの窓から旗が何本も突き出て、風にひるがえっている。 ところが、バスの運転手は何も言わずに黙々と運転を続けているのである。町を歩く人びとも、とくに関心をしめすわけでもなく、ただ通り過ぎていくだけだ。 「なんだ、こりゃあ」 私は、新手のパフォーマンス集団か、それとも新興宗教の巡礼かと思い、ただただ茫然と見守るばかりであった。 それが、サッカー場からの帰りのバスだとわかったのは、イタリアから帰る日が近いころであった。 そういえば、イタリア人とサッカーについて話したことはなかった。たまたまサッカー好きな友人がいなかったのか、それとも日本人にサッカーの話をしてもムダだと思ったのか、サッカーに縁遠いままイタリア暮らしを終えてしまったのは残念である。 |
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広場でサッカーをやっていた少年たちにカメラを向けると、喜んでポーズをとってくれた。 イタリア南部のバーリにて。 撮影 : 1981/09 Bari |
ところで、フィレンツェのサッカーチームであるフィオレンティーナには、当時アントニョーニというすぐれたプレイヤーがいた。翌年のスペインワールドカップの代表にも選ばれた人である。 私がフィレンツェにいたころ、この人が試合中に意識不明になるほどの大けがをしたことがある。このことを知ったのは、翌日の地方紙の一面トップにデカデカと、『アントニョーニ倒れる』という見出しが踊っていたからだ。 別に、スポーツ新聞というわけではない。日本のような全国紙が少ないイタリアでは、れっきとした一般紙であった。その一面に、視力検査の最上段に書かれているような大きな活字で、サッカー選手のけがの話が載ったことに、私はいたく感心したのであった。 しかし、それはまだ序の口であった。次の日の朝刊にも、また一面トップでこう出ていた。 『アントニョーニ、話す』 どうやら、意識が回復して口がきけるようになったらしい。それはよかった、と私は思った。 しかし、驚きはまだ続いた。三日目。 『アントニョーニ、起きる』 そろそろあきれてきたが、次の日もまた一面トップであった。 『アントニョーニ、立つ』 駄菓子青年が、この国のサッカー文化に対して、深い敬愛の念を抱いたのは言うまでもない。 |
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フィレンツェの橋の上ですれちがう2人のおじさん。どこの国でも、おじさんは新聞を片手に歩くもののようだ。 撮影 : 1981/11 Firenze |
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【以下おまけ】 翌1982年、日本に帰って来た私は、真夜中までテレビにかじりついて、ワールドカップスペイン大会におけるイタリアチームの活躍をリアルタイムで見届けたのであった。そして、私の応援のかいあって、イタリアはみごとに優勝した。 その大会で得点王になったパオロ・ロッシは、いつもゴール前を徘徊し、こぼれ球をけり込んでは得点を重ねていた。 また、イタリアが、その気質に似合わず、固い守りを得意とする伝統があることを知ったのもそのときである。準決勝などは、ジーコ擁するブラジルに対して、カテナッチョ(かんぬき)というあだ名のついた守りで固めて、先制点をせこく守りきった。 だが、なんといっても私が好きだったのは、ゴールキーパーのゾフである。確か、当時すでに40歳だったと記憶している。哲学者のような雰囲気をただよわせ、たいして機敏に動いているわけでもないのに、なぜか相手のシュートがつねに彼の手の中に収まってしまうのは、不思議だった。 私は、小さいころに東京オリンピックのマラソン中継で見た、エチオピアのアベベを思い出していた。 |
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