どんな町でも、何か月も住んでいると、いきつけの店というものができるものだ。 私の滞在中も、行きつけのバール、行きつけの写真屋など、顔なじみになった店も少なくなかった。身のまわりのものはスーパーで買ってしまうことが多いのだが、やっぱり味気ない。なるべく地元のおじさんがやっているような店でモノを買うように心がけていたのである。 そんな店の中でも思い出深いのが、とある小さな果物屋である。 はじめてその店に入ったのは、同じ学校に通う日本人のS氏とT島氏と3人で散歩をしていたときであった。 | |
これはその果物屋ではなく、フィレンツェ中心部にある市場のなかの八百屋。 撮影 : 1981/10 Firenze |
岐阜県出身で、歩きながらものを食うのが好きなT島氏は、さっそく店に入ってりんごを物色しはじめた。ちなみに、私は育ちがいいので、あまり歩きながら食べることはしない。 すると、店の奥から、50歳前後と思われる小柄なおじさんが、かん高い声をあげながら近寄ってきた。 「おお、東洋からのお客さんよ、いらっしゃい!」 また、わけのわからない人が出てきたかと思ったが、イタリア滞在も長くなったころでもあり、そんなことではいちいち驚かなくなっていた私である。 「これがほしい」 りんごの山を指差したT島氏に、店主はにこやかな笑顔をふりまきながら、大げさなジェスチャーで色のいいりんごを選んでくれた。 私は別にりんごなどほしくもなかったのだが、店主の異常なまでの愛想のよさに、思わず手を伸ばしていた。 「ところで、みなさんは勉強に来ているんですか、仕事ですか?」 ……と、まあ、こんなおきまりの話をきっかけにして、会話が始まった。 「ところで、ものを買うときには、『これをください』という言い方のほうがいいですよ。そうそう、接続法を使うともっといい。じゃあ、こんどはそれを使って言ってみようね」 イタリア語の練習までしてくれる親切な人だったが、なにしろ話しだすと止まらないのである。 「私はシエナの生まれなんですよ。みなさんは知っているかな? 標準イタリア語はトスカーナ方言をもとにしてつくられたんだけれど、そのなかでも美しいのはやっぱりシエナのことば。あのダンテもこう言っていました……シエナのことばは美しい、とね」 私たちは、店先でりんごをかじりながら、おじさんの「講義」に聞き入っていた。眼鏡をかけたインテリっぽい風貌の店主が、外国人にもわかるように、きれいな発音でゆっくり話すようすは、なにやら教会で説教をしている司祭を思わせた。 俗っぽい話から高尚な話まで、私たちの「質疑応答」を含めて、「講義」は30分近くも続いただろうか。ほかに客が来ないか心配だったが、昼下がりの中途半端な時間だったためか、そんな心配も必要なかった。 | |
これが、果物屋のおじさんの生まれ育ったシエナの町の中心部。 「マンジャの塔」の下に、パリオ(町内対抗の競馬大会)で有名なカンポ広場が見える。 撮影 : 1996/06 Siena |
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おもしろいので、それ以後もヒマなときは、何度かその果物屋に立ち寄った。そのたびに、おじさんは「やあやあ、日本からの学生諸君」などと言いながら、長々と演説をしてくれたのである。午後の散歩のちょっとした楽しみでもあった。 もっとも、時間のないときにその店の前を通り過ぎるのは、注意が必要であった。へたに目が合うと長話になるからである。急いでいるときなどは、わざわざその店の前を通らないようにして、遠回りをしたこともあった。 ----なるほど、これが「急がばまわれ」というやつだな。 と、つまらないことに感動した駄菓子青年である。 まあ、そのうちに、私たちもほかに時間をつぶすことを覚えたり、夕方には別の講座に通うことになったりして、いつのまにかその果物屋から足が遠のいてしまった。 だが、いまになってみると、もっと話を聞いてみればよかったと思う。まだまだ話したりないようだったし……。私たちが急に来なくなったので、さびしがっていたかもしれない。 ただそれだけの話であるが、十数年もたったいまになって、なぜか思い出す人なのである。 それにしても、あの異常なまでの親切さはなんだったんだろうかとも考える。 もしかすると、奥さんとの仲がうまくいかなくて、話し相手が欲しかったのだろうか。それとも、シエナ自慢ばかりしたために、近所のフィレンツェ人との折り合いが悪くてストレスがたまっていたのかもしれない。 でも、たぶん単なる話好きだったんだろう。 |
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