待合室を出た私は、気分をとりなおしてボローニャの町を歩くことにした。予備知識なしの散歩もいいもんである。 と、すぐに目についたのが、繁華街の先に立っている2本の高い塔。 よく見ると、この塔ときたら2本とも仲良く傾いているではないか。しかも、高さがちがっている。 ----日本だったら、さしずめ雄塔と雌塔だな。 などとくだらぬことを考えながら、私は塔に向かって歩いていった。 近くから見ると、ボローニャの斜塔は高いうえに細いので、まるで煙突である。さらに、その塔の上に登れるということを知って、さらに驚いた。 ----日本だったら、危なくて登らせないだろうなぁ。 と思いつつも、「新しい町に行ったら、まず高い所に登れ」というのが私の座右の銘である。迷わず登ることにした。 |
何しろ煙突に毛が生えたような塔だから、その内側はひどく狭い。その内側につけられたらせん状の階段をぐるぐる登るのだから、目がまわる。 しかも、踊り場などという気のきいたものがなく、ほとんど休めないのである。おまけに週末だったから、人がいっぱいで息苦しくてたまらないときている。 狭い階段のわきで胸を押さえて座り込んでいるおじさんなどを横目に見ながら、ひたすら単調な階段を登っていったのである。 人びとが行列をつくって、どたどたと木の階段をのぼっていくようすを見ているうちに、ふと、ダンテの『神曲』の冒頭の部分を思い出した。それは、「生きているうちに何もしなかった」という亡者たちが、地獄のふちを永久にどやどやとまわり続ける情景である。 |
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写真ではそうでもないが、実物は恐ろしいほど傾いていた。しかも、てっぺんまで登れるのがこわい。 撮影 : 1981/11 Bologna
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そんな苦労ののち、塔の上からの眺望を味わったあとは、下界におりて広場でひなたぼっこをしているおじさんの群れにまじってぼんやりしたり、ボローニャ大学の重々しい建物を見てため息をついたりして、ボローニャの休日を過ごしたのであった。 実は、その日の夜、フィレンツェで日本人の友人4人と夕食をとる約束をしていた。そのために、暗くならないうちにボローニャを出なくてはならなかった。 ボローニャは、とくにどうという町ではなかったが、なぜか印象に残るところであった。イタリアに行けばどこでも、古い町並みに最新ファッションの店が立ち並ぶという風景が見られるのだが、ボローニャでは特にそのアンパランスが楽しい。そんな風景に心を動かされて、シャレた靴を一足買ってきた私である。 だが、帰りの列車に乗ってみると、何となく重苦しい気分になってきた。晩秋の寒々とした風景、重々しいボローニャの町並み、そして志なかばにしてテロで亡くなった日本人学生、毎日何をしているんだかわからない自分自身……。多感な年ごろであった私は、やけに感傷的な気分になってフィレンツェに戻っていったのであった。 | |
夕方のドゥオーモ前は、なぜかおじさんたちがいっぱいだった。日なたに人が集中しているようすは、中学校でやったミドリムシの観察を思い出させた。 撮影 : 1981/11 Bologna |
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友人たちとの待ち合わせ場所はフィレンツェの駅である。列車から降りると、すぐ近くに彼らはいた。私よりやや年下のA嬢が、目ざとく私を見つけた。 「あら、ダガシくん。どこへ行ってたの?」 「ボローニャ」 私は、ボローニャで目にした光景を思い出しながら、愁いに満ちた声でぽつりと答えた。 だが、そんな感傷的な気分にひたっていた私に対して、彼女は底抜けに明るい声でこう言ったのだ。 「そっかー。だからボロを着てるのねー、キャハハー」 私は、絶句した。 ----こいつは……こいつは、なんとデリカシーのないやつなんだ……。 センチメンタルな気分は、いっぺんにふっとんでしまった。 私はひどく憤慨した。が、その一方でなぜか冷静でもあった。 ----そうかぁ、何だかよくわからないけれど、人生ってこういうもんなんだ。 「どうしたのよー、何を怒ってるの」という声をそばで聞きながら、私は一人で悟った気分になっていたのだ。 こうして駄菓子青年はまた少し大人になったのである。 でも、レストランでたっぷりとワインを飲み、腹いっぱいに食べたら、そんなことなどすっかり忘れて元気にはしゃいでいた私であった。 |
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