なぜ冬は寒いのか、なんとかその理由をイタリア語でうまく言ってやりたい……と思っていると、ふとその前の日に学校で習ったばかりの文法を思い出した。 前日に読んだのは、「(ピサの)斜塔」というタイトルの課であった。斜塔とは、イタリア語で言うと「Torre pendente(トッレ・ペンデンテ)」。文字通り「傾いている塔」である。pendenteというのは、pendere(ペンデレ/傾く)という動詞の現在分詞。英語で言えば「Leaning」といったところである。 ----おお、これじゃ、これじゃ。 そして、私はニコラに向かって、ゆっくりとイタリア語で答えた。 「なぜならば、地球は、太陽のまわりを傾きながらまわっているからである」 すると、ニコラはニヤッと笑い、まるで語学学校の先生のように、「エザット(その通り)」と言ったのであった。 ちなみに、「エザット(esatto)」とは、英語の「exact」と語源が同じ。語学学校の先生は、学生の答えが合っていると、「よろしい」という感じで「エ」と「ザ」に異様に力を入れて言っていたものである。いかにも、「大当たり~」という感じがしておかしかった。 | |
ご存じ、ピサの斜塔のある「奇跡の広場」。 ちなみに、イタリア人に「ピサ」と言っても通じない。「ピーザ」あるいは「ピーサ」と発音しなくてはいけないのである。 撮影 : 1981/10 Pisa |
「おお、ダガシ君、やるじゃないか」 ニコラの「エザット」についで、S氏とT島氏にもほめられて、得意になった駄菓子青年であった。 ともかくも、私のイタリア語会話のなかで、現在分詞を使ったのは、これが最初で最後だった。 こんなささいなことで、ちょっぴりイタリア語に自信をもってしまったお調子者の私である。まあ、語学の上達には、とにかく徹底的に楽観主義で臨むこと。それと、よき指導者、あるいはよき恋人にめぐり会うことが大切ではなかろうかと思うのである。 私の場合、もし、よきイタリア人の恋人に出会っていれば、イタリア語はずっと上達したろうに……。 それはともかく、ニコラとは、その後もよく会った。ときには、コーヒーを飲みながら語りあったり、いっしょに映画を見にいったりもしたものである。 彼は、私とS氏の名前が似ているのがおもしろくてしょうがなかったらしい。 「タカシ(実はダガシ青年の本名)、タカフミ……。おお、二人は親戚なのか」 「いやいや、タカシなんて名前は日本には腐るほどいるんだ」 「そうか、そうか、ワッハッハ」 私たちと同じ学校にフミコという名の女性がいて、彼女もたまに学生食堂に顔をみせたが、そんなときニコラはさらにごきげんだった。 「タカシ、タカフーミ、フミコ……おお、みんな親戚か、ワッハッハ……」 どこがおもしろいのかわからないが、高笑いをするニコラであった。 ある日、学生食堂で豚肉(らしきもの)を食べていたときである。ニコラが急にナイフとフォークを置き、紙ナプキンで口を拭いたかと思ったら、まじめくさった顔でこんな質問をしてきた。 「ところでダガシよ、日本語でポルコは何というんだ」 「ブタだよ……ブ、タ」 「おー、ブタ、ブタ。それはやはり女性に向かって言ってはいけないのか。ハッハッハ」 ふだんは冷静なニコラだったが、こんなふうに、ときには私たちの想像をはるか超えた喜びかたをするやつであった。 そういえば、学生食堂でみんなが硬いパンをかじっていたときに、S氏が習いたての文法を使って、「このパンを食べるには、歯が強くなくてはならない」とまじめな顔をして言ったことがあった。そのときのニコラの苦笑いもまた、忘れられない。 |
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これが、ピサの斜塔のてっぺんからの眺め。残念ながら、いまはのぼれなくなってしまった。 撮影 : 1981/10 Pisa |
日本に帰ってきてから、ニコラには一度絵はがきを出した。「今度は日本で会おう」と書いたら「ぜひ会いたいが、日本はあまりにも遠い」という返事がきた。 その数年後にクリスマスカードを出したときには、返事はなかった。 ----あいつも忙しいのかもしれないし、もしかしたら引っ越したのかもしれないなあ。いまごろは、大学を卒業して弁護士になっているんだろうか、それとも故郷のバーリにもどって漁師にでもなっているのか……などと、ときどきなつかしく思い出したのである。 ところで、もう一度ニコラに会えたら、ぜひとも聞きたいことがあった。 それは、彼があのマズい学生食堂の食事をどう思っていたかである。なにしろ、私にしてもS氏にしても、学生食堂に行くと必ずニコラに会ったというほど、彼はあそこに入りびたっていた。 食の国イタリアに生まれた彼が、本当にウマいと思って毎日あそこで食事をしていたのだろうか。それとも、金がなくて、やむなく学生食堂で食べていたのだろうか……。疑問は深まるばかりであった。 だが、そんな疑問も、日本に帰って時間がたつにつれ、思い出す機会が少なくなっていった。 (さらにつづく) |
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