町はずれにあった大学付属の語学学校には、欧米の各国を中心に、200人から300人くらいの生徒がいた。 東洋人は、知っているかぎりでは、日本人が数人。そして、イタリアに根づいてしまって、本国には帰る気がしないといっている韓国人の女の子が一人。それから、いかにも育ちがよさそうだと思っていたら、父親が本国で警察官僚をしているという才色兼備のフィリピンの女の子一人であった。 数人しかいなかった日本人のうち、私をふくめて3人が、中級クラスの最下位レベルのクラスに集まっていた。同級だったのは、安下宿に同居することになるS氏と、「赤ワインの恐怖の巻」で私が下水をつまらせる原因となった晩餐を開いてくれたM子さんである。 授業は、はっきり言って、楽しくてお気楽なものであった。 そんなある日の話。これはまだ、秋の授業が始まったばかりのことである。 | |
フィレンツェのサンマルコ広場(サンマルコ修道院の前)にて。左の旧型のバスは緑色、右の新しいバスはオレンジ色。 この辺は学生が多く、安い食べ物屋やバールが並んでいた。 撮影 : 1981/11 Firenze |
テキストに「C'era una volta...(ちぇーら、うーなぼるた)」という言い方が出てきた。昔話の冒頭の決まり文句で、日本でいえば「むかしむかし……」というところだ。そこで、私たちの担任であるかわいい女の先生がこんな提案をした。 「それじゃ、みなさん。各国ごとにグループをつくって、その国の昔話をイタリア語でやってもらいましょう。ハイ、じゃあ、フランス、アメリカ、ドイツ、日本の順で、代表が一人、前に出てきて話してください」 ちなみにこの先生は、当時たぶん20代後半といったところだったろう。髪の色は赤茶っぽく、目は青みがかっていて、生粋のイタリア人というよりも、チロルあたりに住んでいる北方系の女性のようにも見えた。両親ともイタリア生まれで、彼女がフィレンツェで仕事をやることになって、家族ごとこの町に引っ越してきたということは、すでにひそかに聞きおよんでいた。 彼女の提案した「イタリア語昔話合戦」は、ちょっとしたお遊びで、クラスの交流を深めることが目的であるとはわかっているのだが、それにしても、イタリア語の聞き取りすらおぼつかない私にとって、これは晴天の霹靂である。 「こりゃ、マイったなあ……。Sさん、M子さん、どうします?」 「どうしますって、やるしかないやろ」 「誰が、出るんですか」 なんとなく不吉な予感をいだきつつ質問をすると、二人は冷たく言い放った。 「あんたに決まってるじゃない」 「ダガシ君、キミのほかに誰がやるんだい」 ----ああ、やっぱり……。 私は一瞬のうちに絶望の淵においこまれてしまった。それにしても、授業中にイタリア語で会話をするときは、みんなファーストネームで呼びあっている仲である。それなのに、日本人どうしで日本語を使った会話になったとたん、年齢が二人よりも1つか2つ下であるだけで、私は二人の奴隷同然になるのである。 あまりにも私が気落ちした顔をしていたのだろうか、S氏がなぐさめてくれた。 「ぼくたちも助けてやるからさ、まあやってこいや。一躍クラスの人気者やで」 「そ、そうかなあ……」 もともと目立ちたがり屋でお調子者の駄菓子青年である。S氏のひと言で、あっさりとその気になってしまった。よく考えてみれば、初心者なんだから、うまく言えなくて当然。先生も、わからない単語はいくらでも助けてくれると言っていた。 |
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フィレンツェの郊外、カステルフィオレンティーノの秋。 撮影 : 1985/11 Castelfiorentino |
そうと決まったら、まずは出し物を決めなくてはならない。 「何をやろうかな……浦島太郎なんてどうかなあ」 私が提案すると、S氏はこれを一言のもとに否定した。 「いやいや、あかん。知らぬ間に時間がたったなんていう哲学的で高級な話は、このクラスの西洋人にはウケへんで」 「なるほどねえ……」 確かに、玉手箱から煙が出てきておじいさんになったところを工夫してうまく話さないと、ちっともウケないだろう。だが、そこをうまくやるだけの語学力はない。 困っていたら、S氏も考えてくれた。 「かぐや姫なんてどうや。きれいだし、西洋人は喜ぶかもよ」 教室の前のほうでは、すでにフランス組が話をはじめていたが、そんなものを聴いている余裕はない。私は頭の中で「かぐや姫」の話を練りはじめた。 「Sさん、竹ってなんていうんですか?」 「タケ、……さあね、バンブーとちゃうか?」 「へえ……、あ、ホントだ。英語と同じなんだなあ。それから……っと、次々に来る求婚者に対して、蓬莱の山がどうとか、金でできた枝がどうとかと探させますよねえ……うう、ああ、ダメだ、ダメ。難しすぎる!」 どうも、かぐや姫を語るには、単語が難しそうだということがわかった。再び、私たちは頭をひねって、日本の昔話を思い出していた。 「おお、そうだ。桃太郎なんてどうでしょうかねえ」 桃が「ペスカ」であることはすでに知っていた私である。 「おお、それはええ。悪いヤツをやっつけるっていうシンプルなストーリーだからな、あいつらにも十分にわかるやろ」 まさか、この「シンプルなストーリー」が、あとで日米の民話観の対立(?)を招くことになるとはつゆ知らず、私はすぐさま頭のなかで桃太郎の話をイタリア語に置きかえる作業にはいったのである。 ----ええと、川の上のほうから大きな桃が来たと。ドンブラコッコと音を立てながら……。おお、これは習ったばかりの文法が使えるぞ。で、おばあさんはその桃を持ち帰り、家でそれを切った、と。「切る」はタッリャーレだったっけ、トッリェレじゃなかったよなあ……。 西洋人たちが話している昔話は、みんな誰もが知っているものばかりであった。ドイツ組は、「ハーメルンの笛吹き」だったように記憶している。アメリカ組の昔話に対しては、ヨーロッパ人から、「それは、ヨーロッパの話だ」というヤジが飛んだようだったが、私はそんなことにかかずらっているゆとりはなかった。 「Sさん、Sさん、『またがる』って、どう言うんでしたっけ」 「さあねえ……、おお、辞書にはカバルカーレと出ているわ……ん? ところで、桃太郎のどこで『またがる』が出てくるんや?」 「だって、ほら、クマにまたがって鬼を退治しにいくでしょう」 「えっ? ……ダ、ダガシくん、金太郎とごっちゃになってるで!」 (つづく) |
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