語学学校は確かに楽しかった。桃太郎の話をしたり、授業中にみんなでボ~ラ~レなんて歌ったりするのは、私にはぴったりであった。 でも、なにか物足りないものを感じていたのも事実である。というのも、せっかくイタリアに来たというのに、毎日顔を合わせるのはアメリカ人やドイツ人や日本人。イタリア人はもちろんのこと、町でよく顔を見るアフリカ人やアラブ人と話す機会は、ほとんどなかったからだ。 そんなある日、安下宿の朋友S氏が耳寄りな話をもってきた。 「ダガシくん、ダガシくん。このフィレンツェでね、タダで語学を教えてくれるところがあるそうですわ。授業は夕方だというから、午前の学校とも重ならないし……、どう、行ってみん?」 S氏は、町でたまたま出会った日本人の若夫婦から、この話を聞き込んだそうだ。例によって、町を歩いている日本人にかたっぱしから声をかけていたらしい。まだ、フィレンツェに東洋人が少なかったころである。 「ふうん、なんかタダというのが気になるなあ。タダより高いもんはないというし……」 日課である夕方の散歩ができなくなることを思うと、私は気乗りがしなかった。 「ダガシくん、せっかくイタリアに来たのに、このままじゃ、会話もうまくならへんで。行こう、行こう」 私は、S氏の熱意と迫力に押されて、いやとは言えなくなってしまった。もっとも、S氏にとっては、会話がどうこう言う以上に、授業料がタダということろが気に入ったにちがいない。 | |
夕暮れのフィレンツェ中央郵便局前。その無料の語学学校は、ここから通りを2本ほどはいったところにあった。 撮影 : 1981/11 Firenze |
まずは、授業参加の登録をしなければいけないとのことで、S氏とともに共和国広場のやや駅寄りにある建物に向かった。 薄暗い階段をのぼると、突然目の前が開け、体育館のような広い部屋に出た。 中央には卓球台があり、アラブ人らしい若い男たちが卓球をしている。部屋のあちこちにはアフリカ人らしき男たちもうろうろしている。 さすがの私も一瞬ひるんだが、だんだんと気分が高揚してきた。 ----おお、これだ、これ! 私が感激にひたっていると、S氏はずんずんと卓球台に向かっていくではないか。私もそのあとを追った。そして、S氏は強引にも、卓球をしている最中のアラブ人の若者を呼び止めて、勝手に話しだしたのである。 「はじめまして、私たち、日本から来ましたです。よろしく」 私も負けずに「はじめまして、ダガシと言います」なぞといいながら、手を出した。 そんな突然の攻撃に相手は一瞬ためらったものの、ていねいに「はじめまして」と言いながら手を握ってきた。 「ご出身はどちらですか」 私が聞くと、彼は答えた。 「パレスティナ」 近くにいたアフリカ人らしき若者にもあいさつした。やはり、「ご出身はどちらですか」と聞くと、「エリトリア」という答えが返ってきた。 まだエリトリアは独立国ではなく、エチオピアからの独立闘争をしていたころである。 ----おおっ、これはすごいところに来たもんだ。 駄菓子青年は、自分が激動の世界に身を置いているような気分になり、うきうきしてきたのであった。 |
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これは、"本家"フランチェスコがいたアッシージの聖フランチェスコ教会。 撮影 : 1981/12 Assisi |
ひととおりあいさつしたあとで、隅にある事務所らしき部屋のドアを開けた。すると、上品そうなイタリアのおばさんが二人、にこやかに迎えてくれた。 まだまだイタリア語がヘタだったころである。必死になってあいさつをしながら、名前の登録を済ませた、そのときである。 「あら、あなた、……に似てるわね」 「へ、なんでございましょうか?」 私は、聞き返した。 「フランチェスコに似ているわ」 「フランチェスコ? 誰、それ?」 「○×▲□よ!」 よく聞き取れなかったが、明晰だった私の頭脳は、一瞬にしてすべてを悟った……ような気がした。 「アッシージの?」 賢明で知識豊富な読者諸氏はすでにご存じかもしれないが、アッシージのフランチェスコといえば、13世紀前半にイタリアに現れた聖人。粗末な服に身をつつみ、清貧と奉仕を旨とした人だ。 何かおかしいとは思ったが、その人に似ていると言われたような気がしたのであった。 とっさに聖フランチェスコが頭に浮かんだのは、なにも私が教養深かったわけではなく、それ以外に「フランチェスコ」という名前の人物を知らなかっただけの話である。 だが、私のことばを聞いたとたん、二人のおばさんは大きな声をあげて笑いだしたのである。 私は、そのあまりの爆笑ぶりを見てうろたえた。 ----やっぱり言うんじゃなかった……。 そう思ったが、あとの祭りである。おばさんは笑いをこらえながら何か言ったけれど、私はよく理解できなかった。そして、いつまでも収まらない笑い声を背に、部屋を出るしかなかった。 フランチェスコという愛称をもつマカオ出身の男が、その建物に出入りしていることを知ったのは、その数日後のことであった。 (つづく) |
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