写真がとくに好きな人でなくても、イタリアに来るとむやみやたらにシャッターを押したくなるものだ。私も、日本からかなり大量にフィルムを持ち込んできたが、それでも何か月か滞在しているうちに足りなくなってしまった。 とはいえ、当時はコダクローム64というコダックのポジフィルム(スライド用のフィルム)を使っていたから、日本で買おうとイタリアで買おうと中身は同じである。値段はイタリアで買ったほうが安かったから、何も日本で買い込んでくる必要はなかったのだ。 当時は、日本以外でコダクロームを買うと現像料が込みであるという違いがあった。フィルムの箱のなかに小さな封筒が入っており、そこに撮影済のフィルムを同封して送ると、各国の専用現像所で現像して返してくれる。コダクロームの発色の方法は、ほかのポジフィルムとは違うために、特別な設備を持つ現像所でないと対応できない。だから、現像料金込みというシステムになっていたのだろう。もっとも、以前は日本でもフィルムの料金は現像料込みが普通であったと記憶している。 さて、秋のある週末のこと。フィレンツェ中心部の写真屋で買った36枚撮りのコダクロームをカメラに詰め、斜塔で有名なピーサ(俗にいうピサ)と、その近くにあるルッカをまわってきた。ポジフィルムは1日で使い切り、さっそく現像所に出すことにした。 ----なんかいやな予感がするなあ。この郵便事情が悪いイタリアで、貴重なフィルムを出してしまっていいもんだろうか……。こんな小さい封筒なんか、収集の袋からこぼれ落ちたらそれっきりだぞ。 でも、迷っていてもしかたがない。ミケランジェロ広場の舞台から飛び下りる気持ちでフィルムを入れた封筒を郵便ポストに投げ入れた。 | |
ピーサ市内、アルノ川のほとりにあるかわいいサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会。 戻ってきたフィルムからの1コマ。 撮影 : 1981/10 Pisa |
それから10日近くたったころだろうか。語学学校から帰ってくると、安下宿の郵便受けに、中身がふくらんでいる封筒が届いていた。 ----おお、取り越し苦労だったか。無事に届いたじゃないか。 当然のことなのではあるが、私は感激して自分の部屋にもどった。そして、電気スタンドのスイッチを入れると、紙の箱のなかからマウント(フィルムの枠)のついたフィルムを1コマ取り出し、電球にすかして見た。 ----むむ、これはちょっと露出不足だったかなあ。暗くてよく見えないぞ。 別のフィルムを取り出してみたが、やはり暗い。10コマくらい続けてみたけれど、どれも暗くてはっきりしない。 ----おかしいなあ、カメラが壊れていたのかなあ。まさか、イタリアの現像所が失敗をしたんじゃあないだろうか……。 そう思って目を凝らしてフィルムを見ると、どうもおかしい。 ----変だなあ、こんな景色はあったっけ……? そして、さらに数枚フィルムを見たところで、ようやく気がついた。これは、私のフィルムではなかったのだ。そう思って見ると、見慣れぬ人が写っている。 やがて、安下宿の同居人S氏が帰ってきた。 「Sさん、ほら、これ。現像所から間違えて送ってきたんですよ」 「ふうん」 S氏は、気の抜けた返事をしただけだった。 「だから、手紙を付けて送り返そうと思って……。ちゃんと取り替えてもらわないと」 「いやあ、それはどうかなあ。ダガシくん、ここはイタリアや。期待しないほうがええで」 写真に賭ける私の心も知らず、彼はそんなことを言うのである。 「いやあ……。でも、ボクのフィルムを送りつけられて困っている人もいるだろうし。たぶん、その人も送り返すでしょう」 「そうかなあ」 「そうですよ」 ムキになって言い返しはしたが、私も半分はあきらめていた。戻ってこなかったら、またピーサとルッカに行けばいいかと思っていた。 そんなわけで、その日の夕方は手紙書きに没頭することになった。学校で手紙の書き方を勉強したばかりだったのは幸いであった。 「拝啓、これは、私のフィルムではありません----と。私が写したのは、ピーサとルッカです。もし、見つかったら送ってください----まあ、こんなところかな。敬具。それにしても、なんでこう次から次へと難題がふりかかるんだ。困ったもんだ」 まあ、こんな機会でもなければ、初級の身で見知らぬ人にイタリア語の手紙を書くことはなかっただろう。おかげで勉強にはなった。つたないイタリア語だったに違いないが、とにかく端的に意味を伝えることを心がけた駄菓子青年であった。 そして、次の日の朝、例のフィルムを同封して再び現像所に送ったのである。 |
|
ルッカの城壁から見た町のようす。 これも、戻ってきたフィルムからの1コマ。 撮影 : 1981/10 Lucca |
それから1週間ほど後のことである。郵便受けに現像所からの手紙が届いた。 もしやと思って、その場で中身を空けると、スライド用の紙箱が入っているではないか。さっそく封筒を引きちぎり、スライドを1枚手にとって、明かりのほうに透かしてみた。 ----やった! フィルムが戻ってきたぞ! 封筒のなかには、イタリア語でおわびの文句がタイプで書かれていた。少なくとも、私が書いたイタリア語よりは格調があったような覚えがある。 「Sさん、フィルムが戻ってきましたよ」 「ふうん、そうか。よかったな」 口では喜んでくれたけれど、相変わらず気のない返事のS氏であった。 それにしても、私が返したフィルムは、ちゃんと本人の手に戻ったのだろうか。こんなことがあるのも、いかにもイタリアらしいと思ったものだ。 フィルムの話はこれでおしまいなのだが、その8年後にこんなことがあった。イタリア旅行の最終日に、ローマのレコード屋でジャンナ・ナンニーニという女性歌手の最新CDを買ってきたのだが、なんとそのCDはジャケットと中身が違っていたのである。ジャケットで見ると歌が10曲ほど入っているアルバムだったはずなのに、CDのほうは3、4曲しか入っていない「Qディスク」という廉価版であった。 ----ああ、イタリアだ! 私はため息をつきながら、忘れかけたイタリア語を頭の奥から絞り出し、CDを交換してくれるよう手紙をつづった。 「いやあ、参りましたよ。CDの中身が違っているんだから。しょうがないから、交換してくれるように、ジャケットの住所に手紙を出しておきましたよ」 数日後、たまたま出かけた東京・高田馬場にある「カーザ・ビアンカ」という輸入レコード屋でそのことを話すと、眼鏡をかけたきまじめな店主は、甲高い声でひとこと。 「まあ、無理じゃないですか」 しかし、そんな店主の無責任な発言にもかかわらず、このときもやはり半月ほどすると航空便でCDがきちんと送られてきたのである。 このような実体験を経て、私はイタリア人に対する認識を改めた。イタリア人はそれほどいい加減でなく、意外にきちんとしているのである。 いや、待てよ。ホントにきちんとしているなら、フィルムやCDの中身を取り違えることはないか……。 |
▲前のページに戻る | 次のページに進む▼ |
■トップページ | | | 「イタリア貧遊記」表紙■ |