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駄菓子のイタリア無駄話目次
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 「モストロ・ディ・フィレンツェ」といえば、知る人ぞ知るフィレンツェの連続猟奇殺人事件の犯人である。
 事件は決まって新月の夜に起き、被害者はカップルばかり。1968年から1983年にかけて、フィレンツェ郊外で8組16人が殺されたという。イタリアでは事件をモデルにした映画(邦題「新サスペリア」「ミッドナイトリッパー」)もつくられたが、フィレンツェでは上映禁止になったという。また、のちにつくられたホラー映画「フェノミナ」「ハンニバル」にも大きな影響を与えた……とまあ偉そうに書いたものの、私もこのあたりは詳しいわけではない。

 さて、私が「モストロ・ディ・フィレンツェ」ということばをはじめて耳にしたのは、1981年10月のある昼下がりであった。
 フィレンツェ中心部にあるいきつけのバールで、私とS氏がぼんやりと椅子に座っていると、遠くのほうから何やら騒がしい東洋人が駆け寄ってきた。
「大変ですよ、大変ですよ、大変ですよ」
 いまだったら「どうしたんだい、ハチ。やけに騒がしいじゃねえか」とでもまぜかえすところだろうが、当時は銭形平次のこともよく知らなかった。
 駆け込んできた人物をよく見ると、それは岐阜出身のT島氏であった。彼は私よりも5歳年上だったが、見るからにそそっかしそうな人である。フィレンツェ南西部の郊外にあるスカンディッチで皮革の勉強をしていたらしいが、後になっていつのまにやら私たちと同じ学校に通っていた。

ミケランジェロ広場からさらに坂を登ると、サン・ミニアート・アル・モンテ教会という、フィレンツェで最古の部類に入る小さな教会がある。

撮影 : 1981/09 Firenze
サン・ミニアート・アル・モンテ教会


 T島氏は座っている私たちの目の前で、イタリアの新聞を広げた。
「見てくださいよ~。モストロですよ~。ウチの近くなんですよ~」
「はぁ?」
 私は、何のことだかわからなかった。モストロ、モストロ……? 確かに新聞には「Mostro」という活字がデカデカと踊り、公園のようなところに置かれたベンチの写真が載っていた。そこで私は、少ない語彙の中からけんめいに考えた。
----モストロは知らないけど、モストラ(Mostra) なら知ってるぞ。動詞のMostrare(モストラーレ)の名詞形だから、確か「展示」とか「展覧会」という意味だったんじゃあなかったけ……。まあ、男性形と女性形の違いはあるけど、似たようなもんだろう。

 そう思って新聞を見ると、ベンチの写真は何か前衛芸術の作品の一つのように思えてきた。ちょっとピンボケだったのが気になったが、まあそこはイタリアである。製版か印刷のときに失敗でもしたのだろうと勝手に判断した駄菓子青年であった。

 T島氏はというと、相変わらず興奮状態が続いていた。
「モストロですよー、恐いですよー」
 私はというと、モストロということばを聞いて、ミラノのフィエーラやヴェネツィアのビエンナーレに似たような見本市か芸術祭を頭に描いていたのである。そんなことだから、どうもT島氏との話が噛み合わない。
「はぁ、いつからなんですか?」
「いつからって……、きのうですよ。でも、前から出ていたんですよぉ」
「はぁ? 出ていた??」
 混乱している私を見て、T島氏はさすがに私が誤解していたと思ったのだろう。
「何を言ってるんですか。モストロですよ。怪物のこと」
「へ?」
「連続殺人鬼のことですよ。知らないんですか」
 そうなのである。モストロは、英語のモンスターだったのだ。ピンボケ写真は、どうやら現場の様子を撮影したものだったらしい。

----なんだなんだ、ターボラ(テーブル)にターボロ(事務机)、バンコ(ベンチ・台→銀行)にバンカ(銀行)など、名詞の語尾がちがっても、たいていは語源が同じだったり、似たようなものを指しているじゃないか。なんで、モストラとモストロは全然ちがうんだ。
 イタリア語初心者だった私は、モストロに対して、道義的な怒りとともに語学的な憤りを感じたのであった。

ミケランジェロ広場から東方を望む フィレンツェも、中心部からはずれると、モストロが出そうな森はいたるところにある。

撮影 : 1981/09 Firenze

 それにしても、ただの殺人犯にしては、新聞の扱いがひどく大きくて驚いた。凶悪事件など珍しいフィレンツェならではのことかとも思ったが、理由はそれだけではなかった。モストロは、当時すでに半ば伝説化した殺人犯だったのだ。
 聞くところによると、なぜかモストロはカップルばかりを狙い、何年かに1回、忘れたころに現れるのだという。その手口はあまりに猟奇的で、しばしば女性の死体の一部を切り取っていったのだとか。しかも、犯行は人目につかない森の中が多く、目撃者もほとんどいないということであった。
 ちなみに、8組の被害者のうち、1組は男どうしのカップルだったそうな。これは、完全主義者モストロの唯一の失敗だという説もある。
 数少ない目撃情報や犯行の手口から、犯人は中年のインテリ男性らしいという話がもっぱらだった。のちに容疑者が捕まったと聞いたが、どうやら裁判では証拠不十分で無罪になったらしい。

 そんなモストロの話もすっかり忘れていたころ、どこかの新聞だったか、それとも日伊協会の会報だったかで、久しぶりにモストロという字が目に入った。それによると、一時モストロの重要な容疑者とされた男性(おそらく裁判まで行った人だろう)が亡くなったとのこと。そんな記事を見るにつけても、モストロは歴史の1ページに刻まれるほどの大事件だったのだなと感じたのであった。そして、幸か不幸か私もその1ページに立ち会ったのである。
 その記事を読みながら、私の脳裏には、昼下がりのフィレンツェのバール、騒々しいT島さんの顔、新聞のピンボケ写真が次々に浮かんできたのであった。

※なお、モストロについて詳しく知りたい方は、新潮社刊の「フィレンツェ連続殺人」(マリオ・スペッツィ・島村奈津 共著)をご覧くだされ。
 ちなみに、モストロは「怪物」と訳されることが多いけれど、日本語でいうと「怪物」よりも「鬼畜」「外道(げどう)」といったニュアンスだと思う。


 


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