毎年毎年日本では、さまざまな流行語がはやってはすたれていくのだが、そのあたりの事情はイタリアでも似たようなものだった。 私が勉強に行っていた1981年にはやったのが「チョエ」ということば。といっても、プロレスラーの叫び声でもウルトラマンのため息でもなく、Cioe'(実際にはeの上に右下がりのアクセント記号が付く)と綴るれっきとしたイタリア語である。日本語にすれば「つまり」「だから」といった意味の接続詞である。 これが、テレビでもラジオでも街角でも、やたらに耳についた。何か会話をしていると、ふた言目には「チョエ」なのである。「ペラペラペラペラ、チョエ、ペラペラ、チョエ……」といった具合。しかも当時の流行の特徴は、会話の冒頭から「チョエ~、ペラペラ、チョエ~、ペラ」とくるのだ。 日本でも、会話のはじめから「だからー」「ていうかー」ということばを使う人がいるが、あんな感じなのだろう。 |
午後の難民学校の先生の一人、イギリスに留学していたことがあるというインテリの男の先生は、この「チョエ」がたいそうお嫌いのようすであった。 「チョエとは、前に言ったことを受けて、次につなげることばだ」 先生は、インテリの苦悩をすべて我が身に背負っているかのように、不機嫌そうな表情で語りはじめた。 「それじゃ質問だ。会話をチョエではじめるのは正しいか?」 |
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シエナの中心部には細い路地が網の目のように走り、しかも坂道が多かった。 撮影 : 1981/10 Siena |
あまりに単純な質問だと、かえって迷ってしまうものである。何度も質問を聞きなおしたすえに、私はようやく先生の意図がわかった。 「正しくありませーん」 私がそう答えると、先生の渋い表情は、ちょっぴりほころんだように見えた。 「そうだ、そうだ。だが、いまはみんな最初からチョエとくる。困ったもんだ。そんなのはイタリア語じゃない。みんなは使わないように」 使わないようにと言われても、そんな俗っぽいことばを使いこなすレベルにはまだ達していない。ただ「はあ」とうなずくほかない駄菓子青年であった。 さて、前置きが長くなったが、岐阜県出身で革製品の勉強に来ていたT島氏の話である。 彼にはちょっと変わった口ぐせがあった。 「シエナはよかったですよ」 このことばがふた言めには口から出てくるのである。 シエナというのは、フィレンツェの南、バスで約1時間半のところにあり、フィレンツェと同様に、いまや世界遺産となった町である。フィレンツェにやって来る前に、彼はそこに1年ほど住んでいたのであった。 それにしても、T島氏のこの口ぐせは、どこにいようが誰がそばにいようが、お構いなし。広場の隅でぼんやりと座っているときも、安食堂でスパゲッティを食べているときも、T島氏は突然思い出したように顔を上げて「シエナはよかったですよ」と口走るのである。 前後の脈絡がなく、いきなり「シエナはよかったですよ」とくるので、最初のうちはかなり妙に感じたものだったが、あまりにもそれが頻繁なので、じきに何とも思わなくなってしまった。 とはいうものの、みんなでフィレンツェの中心部にあるバールにコーヒーを飲みに行ったときのこと。トイレから出てきたT島氏が、晴れやかな顔で、いきなり「いやあ、シエナはよかったですよ」と言ったときにはさすがに驚いた。 |
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カンポ広場、マンジャの塔と並ぶシエナの象徴、ドゥオーモ。 撮影 : 1981/10 Siena |
「T島さんは、よっぽどシエナでいい思いをしたんやろうなあ」 安下宿の薄暗い部屋で、固いベッドに腰を掛けながら、同居人S氏は言った。 「どうや、こんどみんなでシエナに行ってみないか」 「そうですねえ。ちょうどお客さんも来ているし……」 お客さんというのは、うら若き女性2人である。私がイタリアに来る途上、シベリア鉄道の車内で会った女性が、たまたまフィレンツェを訪問していた時期であった。 彼女たち2人の最終目的地は、なんとアフリカのケニア。知人のいるナイロビでスワヒリ語を習うのだという。その前に、約1か月ヨーロッパを巡っている最中であった。 ちなみに、シベリア鉄道のイルクーツクで別れたときに、見たこともないフィレンツェ駅での再会を約束したというのも、ちょっとしたロマンであった。 「じゃ、○月○日から○日まで、毎日夕方の5時ごろにフィレンツェ駅のインフォメーションあたりにいますから……」なんて、いいかげんな約束だけで会えたのも何かの縁である。 もっとも、我々の間にロマンたっぷりの出来事が起きたということはなく、それ以後はせいぜい年賀状のやりとりが何度かあったくらいである。 シエナ行きの提案に、もちろんT島氏は大喜びだった。 「おお、行きましょう、行きましょう。スパゲティのおいしい店を教えてあげますよ!」 彼は満面に笑みを浮かべて言った。 「じゃあ、土曜日の朝9時発のバス。それで、サンジミニャーノとシエナに行きましょう」 こうして、私とS氏とT島氏、そしてシベリア鉄道で会った女性2人を加えた総勢5人は、シエナに向かうバスの乗客となったのであった。 (つづく) |
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